目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第18話 視線の所在

朝。

智哉がダイニングに入ると、市原はすでに朝食を終えて、コーヒーを口にしていた。

テーブルの上には、一枚のプリントされた紙──今日の予定表。


「今日の予定、これね。午前中は書類整理と備品のチェック。午後は特に何もないから……ここに戻るなら、誰かに送らせるよ」


そう言って、市原はマグを指で転がすように持ち上げた。


「君を送ったあと、俺はそのまま出る予定。夕方までは戻れないと思う」


智哉は頷いて、スケジュールに目を落とした。

印刷された行に、特別な違和感はなかった。

いつも通り。変わらない、単調な一日──


──のはずだった。


市原の車で事務所まで送られる。

その後は、結局いつものようにこの建物で待つことにした。

外へ行くという選択肢が、自然と頭から抜けていた。


(一人が怖くなってる……)


そんな自分に、軽く吐き気がした。

以前なら、誰にも邪魔されずにいられる時間はむしろ歓迎だった。

今では、それが“恐怖”にすら感じられる。

誰かに見られていない時間が、かえって不安になる。


智哉は書類棚の前で足を止め、深く息を吐いた。

午前中の仕事は、予定通り。

資料室で報告書を確認し、備品の在庫をチェックする。

業務自体は単純だった。


昼を過ぎると、事務所内の人の出入りが減り、静かさが増していく。

市原の姿は、とうに見えない。

予定通り、外出したのだろう。


──だが、静かすぎる。


その違和感に背を押されるようにして、智哉は普段あまり立ち入らない一室へ向かった。

市原の個室として使われている、奥の部屋。

引き戸がわずかに開いているのが見えた。


(……閉め忘れ?)


普段は、しっかり鍵がかかっていることが多い。

そっと足を踏み入れると、部屋の空気はひんやりと澄んでいた。

無人。物音もない。

机の上に、ノートパソコンが開かれたままになっているのが目に入った。


(……電源も切り忘れてる……)


その程度のことだと思った。

だが、画面に浮かんだウィンドウに、目が釘付けになる。


──《観察記録/T》


ファイル名の“T”の文字が、喉の奥をきゅっと締めつけた。

ページには、日付ごとに書き込まれた詳細な記録が並んでいる。


・4月2日 就寝前、自室の扉を確認後、壁に寄りかかって3分間静止。

・4月3日 洗面所の前で3秒立ち止まり、鏡を見た後、手を握る。

・4月5日 朝食時の返答までの時間が0.8秒早くなる。心理的距離の変化か。


文章は簡潔で、感情を感じさせなかった。

だが、それが逆に恐ろしかった。

“感情のないまなざし”に、ここまで自分が追いかけられていたことに──ようやく気づく。


(……何、これ……全部、俺……?)


背中に、氷水を流し込まれたような感覚。

見られていた。記録されていた。

──行動だけでなく、感情までも。


喉がひりつく。心拍数が急に浮き足立つ。

閉じようとしたその瞬間──


「智哉」


名前を呼ばれた声に、全身が跳ねた。

背後には、いつの間にか戻っていた市原が立っていた。

笑っていた。けれど、どこか目が静かすぎた。


「……こんなところで、どうしたの?」


声は柔らかい。まるで、何も問題がないかのように。

だが、画面はまだ開かれている。


「あ、いえ……そ、の……」


智哉の声が震える。

問い詰めようとする言葉さえ出てこない。

市原は一歩ずつ近づいてくる。


「……ああ、見ちゃった?」


その口ぶりに、からかうような色はなかった。

むしろ、穏やかに受け入れるような調子で続けられる。


「怖がらせたくて、やってるわけじゃないよ。君を理解するためだよ」

「……理解?」

「うん。……壊さないために」

「こ、わさないため……?」


その言葉に、智哉は思わず顔を上げた。

市原はすぐそばまで来ていて、そっと腰に手を添える。


「違う?」

「……そう、ですね……」


口が勝手に、そう答えていた。

本心かどうかも、自分で分からなかった。


「智哉が有能すぎて、書類整理は終わっちゃいそうだね?そろそろ、こういう“仕事”も覚えようか」


そう言いながら、市原は智哉の額に静かにキスを落とす。


拒めなかった。

そのキスが、報酬であり、命令であり、境界線の確認であることを──

もう、知ってしまっていた。


智哉は目を閉じた。

その唇の重みが、これから何を示しているのか、考えたくなかった。


部屋の空気が、静かに変わっていく。

その中で、智哉は息をひそめるように立ち尽くした。


──“見られている”ことにも、慣れ始めている。


恐ろしいのは、その感覚が“当たり前”に思えてきたことだった。

誰かの視線を、安心材料のように錯覚してしまっている自分。

そのことに気づきながら、何もできない。


どんどんと、自分が変えられていく。

その変化を、市原がどう見ているのか。

あるいは、意図して操作しているのか──

それすら、もうわからなかった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?