朝。
智哉がダイニングに入ると、市原はすでに朝食を終えて、コーヒーを口にしていた。
テーブルの上には、一枚のプリントされた紙──今日の予定表。
「今日の予定、これね。午前中は書類整理と備品のチェック。午後は特に何もないから……ここに戻るなら、誰かに送らせるよ」
そう言って、市原はマグを指で転がすように持ち上げた。
「君を送ったあと、俺はそのまま出る予定。夕方までは戻れないと思う」
智哉は頷いて、スケジュールに目を落とした。
印刷された行に、特別な違和感はなかった。
いつも通り。変わらない、単調な一日──
──のはずだった。
市原の車で事務所まで送られる。
その後は、結局いつものようにこの建物で待つことにした。
外へ行くという選択肢が、自然と頭から抜けていた。
(一人が怖くなってる……)
そんな自分に、軽く吐き気がした。
以前なら、誰にも邪魔されずにいられる時間はむしろ歓迎だった。
今では、それが“恐怖”にすら感じられる。
誰かに見られていない時間が、かえって不安になる。
智哉は書類棚の前で足を止め、深く息を吐いた。
午前中の仕事は、予定通り。
資料室で報告書を確認し、備品の在庫をチェックする。
業務自体は単純だった。
昼を過ぎると、事務所内の人の出入りが減り、静かさが増していく。
市原の姿は、とうに見えない。
予定通り、外出したのだろう。
──だが、静かすぎる。
その違和感に背を押されるようにして、智哉は普段あまり立ち入らない一室へ向かった。
市原の個室として使われている、奥の部屋。
引き戸がわずかに開いているのが見えた。
(……閉め忘れ?)
普段は、しっかり鍵がかかっていることが多い。
そっと足を踏み入れると、部屋の空気はひんやりと澄んでいた。
無人。物音もない。
机の上に、ノートパソコンが開かれたままになっているのが目に入った。
(……電源も切り忘れてる……)
その程度のことだと思った。
だが、画面に浮かんだウィンドウに、目が釘付けになる。
──《観察記録/T》
ファイル名の“T”の文字が、喉の奥をきゅっと締めつけた。
ページには、日付ごとに書き込まれた詳細な記録が並んでいる。
・4月2日 就寝前、自室の扉を確認後、壁に寄りかかって3分間静止。
・4月3日 洗面所の前で3秒立ち止まり、鏡を見た後、手を握る。
・4月5日 朝食時の返答までの時間が0.8秒早くなる。心理的距離の変化か。
文章は簡潔で、感情を感じさせなかった。
だが、それが逆に恐ろしかった。
“感情のないまなざし”に、ここまで自分が追いかけられていたことに──ようやく気づく。
(……何、これ……全部、俺……?)
背中に、氷水を流し込まれたような感覚。
見られていた。記録されていた。
──行動だけでなく、感情までも。
喉がひりつく。心拍数が急に浮き足立つ。
閉じようとしたその瞬間──
「智哉」
名前を呼ばれた声に、全身が跳ねた。
背後には、いつの間にか戻っていた市原が立っていた。
笑っていた。けれど、どこか目が静かすぎた。
「……こんなところで、どうしたの?」
声は柔らかい。まるで、何も問題がないかのように。
だが、画面はまだ開かれている。
「あ、いえ……そ、の……」
智哉の声が震える。
問い詰めようとする言葉さえ出てこない。
市原は一歩ずつ近づいてくる。
「……ああ、見ちゃった?」
その口ぶりに、からかうような色はなかった。
むしろ、穏やかに受け入れるような調子で続けられる。
「怖がらせたくて、やってるわけじゃないよ。君を理解するためだよ」
「……理解?」
「うん。……壊さないために」
「こ、わさないため……?」
その言葉に、智哉は思わず顔を上げた。
市原はすぐそばまで来ていて、そっと腰に手を添える。
「違う?」
「……そう、ですね……」
口が勝手に、そう答えていた。
本心かどうかも、自分で分からなかった。
「智哉が有能すぎて、書類整理は終わっちゃいそうだね?そろそろ、こういう“仕事”も覚えようか」
そう言いながら、市原は智哉の額に静かにキスを落とす。
拒めなかった。
そのキスが、報酬であり、命令であり、境界線の確認であることを──
もう、知ってしまっていた。
智哉は目を閉じた。
その唇の重みが、これから何を示しているのか、考えたくなかった。
部屋の空気が、静かに変わっていく。
その中で、智哉は息をひそめるように立ち尽くした。
──“見られている”ことにも、慣れ始めている。
恐ろしいのは、その感覚が“当たり前”に思えてきたことだった。
誰かの視線を、安心材料のように錯覚してしまっている自分。
そのことに気づきながら、何もできない。
どんどんと、自分が変えられていく。
その変化を、市原がどう見ているのか。
あるいは、意図して操作しているのか──
それすら、もうわからなかった。