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第19話 準備

午後の静けさが、事務所の空気にゆっくりと沈んでいた。

資料整理を終え、智哉がファイルを棚に戻そうとしたとき、背後から声をかけられる。


「相原さん。若……いや、市原さんが迎えに来るそうです。準備、お願いします」


振り向くと、年配の事務担当が、事務的にそう告げた。

一瞬だけ目を伏せるようにして、視線を逸らす。

何かを悟られないようにする仕草のようにも見えた。


「準備……って?」


思わず訊き返すと、男は控室の方をあごで示した。


「中に、支度してあるとのことで」


それだけを言い残して、男はすぐに足早に去っていった。

その後ろ姿に、なぜか妙な緊張が残った。


智哉は、嫌な予感を押し殺すように控室のドアを押す。


室内は薄暗く、天井の間接照明が仄かに灯っていた。

椅子の上には衣装が整然と置かれている。


スーツではなかった。

明るいベージュのパンツに、クリーム色のシャツ。


“カジュアルで、けれど清潔感のある服”。


淡い色味で揃えられたその組み合わせは、まるで好青年の“見本”のようだった。

新品のシャツ。新品の下着。サイズはすべてぴたりと合っている。


(また、何か……あるんだ)


脱力とともに、溜息が落ちる。

ここに置かれたのは“服”ではなく、“役割”だ。


着替えながら、手がわずかに震える。

これを着て、何を見られるのか。

誰に、どんな目を向けられるのか。


(……俺は、何をされるんだ……)


考えても、答えはない。

智哉は深く息を吐いて、シャツのボタンを留める。

鏡に映る自分は、“無害そうな誰か”に見えた。


けれど、その目だけが、何も写していない。


(俺……なのに、俺じゃない)


その違和感が、胸の奥にずしりと沈む。


ノック音。

控えめな声が、扉の外から届いた。


「──そろそろ、出る時間ですよ」


返事はせず、ただ立ち上がる。

足音を立てないように歩きながら、智哉は思う。


“準備される”ということは、“使われる前提に立たされている”ということだ。


(選ばれるってことは、きっと……使われるってこと)


分かっている。

でも、分かったところで、どうにもできない。


控室の扉を開けると、廊下の向こう──

まるでタイミングを計っていたかのように、市原が姿を現した。


スーツ姿。けれどいつもよりフォーマルで、ネクタイの色も深みのあるシルバーグレー。

その立ち姿には、飾らない洗練があった。


市原は智哉の姿を見ると、足を止め、微笑んだ。


「……よく似合ってる。やっぱり俺の選び方に間違いなかったね」


“褒め言葉”の形をしていた。

だが、その声の奥には“確認”があった。

この姿が、自分の意図通りに整っているかどうかを測る、静かな満足。


智哉はただ頷く。

反論する気力も、もはや見当たらなかった。


「じゃあ、行こうか」


市原が踵を返す。

智哉は無言でその背中についていく。


エレベーターに乗り込むと、二人きりの密室ができる。

市原は階数のボタンを押し、腕を組んだまましばし無言だった。


その沈黙の中、鏡張りの扉にふたりの姿が並ぶ。

市原がふと、視線を横に滑らせる。


「……セット、してきたんだ?」

「……はい」

「いいね。そのままでいい。変に作り込むより、自然な方がずっといい」


鏡越しに、ふと目が合う。

智哉はすぐに目を逸らした。

でも、その一瞬、市原が何かを測るように自分を見ていた気がした。


(“自然な方がいい”って、どこまで本気だ……)


エレベーターの扉が開く。

静かに歩き出す市原の背を追いかけながら、智哉は息を浅くした。


ビルの前には黒い車が停まっていた。

市原の運転ではない。若い男が無言で運転席に座っている。


ドアが開けられ、無言のまま、後部座席へ乗るよう促される。

智哉が先に乗り込む。続けて市原が隣に腰を下ろすと、すぐにドアが閉まった。


エンジンが静かに始動する。


「今日は、ちょっとした会合があってね。会う人は多くないよ。気にしなくていい」


市原は外を見たまま、落ち着いた声で言った。


「……わかりました」


小さく、けれど確かに答える。

どう返せばいいのかも分からなかった。

市原の右手が、何の前触れもなく、そっと智哉の腿に触れる。


瞬間、身体がこわばる。


「落ち着いて。何もさせない。ただ……隣にいてくれればいい」


その言葉の“本当の意味”は、いつもあとから浮かんでくる。


外の風景が、窓の向こうを滑っていく。

まるで、どこへ向かっているのかを告げる必要など、最初からなかったかのように。


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