午後の静けさが、事務所の空気にゆっくりと沈んでいた。
資料整理を終え、智哉がファイルを棚に戻そうとしたとき、背後から声をかけられる。
「相原さん。若……いや、市原さんが迎えに来るそうです。準備、お願いします」
振り向くと、年配の事務担当が、事務的にそう告げた。
一瞬だけ目を伏せるようにして、視線を逸らす。
何かを悟られないようにする仕草のようにも見えた。
「準備……って?」
思わず訊き返すと、男は控室の方をあごで示した。
「中に、支度してあるとのことで」
それだけを言い残して、男はすぐに足早に去っていった。
その後ろ姿に、なぜか妙な緊張が残った。
智哉は、嫌な予感を押し殺すように控室のドアを押す。
室内は薄暗く、天井の間接照明が仄かに灯っていた。
椅子の上には衣装が整然と置かれている。
スーツではなかった。
明るいベージュのパンツに、クリーム色のシャツ。
“カジュアルで、けれど清潔感のある服”。
淡い色味で揃えられたその組み合わせは、まるで好青年の“見本”のようだった。
新品のシャツ。新品の下着。サイズはすべてぴたりと合っている。
(また、何か……あるんだ)
脱力とともに、溜息が落ちる。
ここに置かれたのは“服”ではなく、“役割”だ。
着替えながら、手がわずかに震える。
これを着て、何を見られるのか。
誰に、どんな目を向けられるのか。
(……俺は、何をされるんだ……)
考えても、答えはない。
智哉は深く息を吐いて、シャツのボタンを留める。
鏡に映る自分は、“無害そうな誰か”に見えた。
けれど、その目だけが、何も写していない。
(俺……なのに、俺じゃない)
その違和感が、胸の奥にずしりと沈む。
ノック音。
控えめな声が、扉の外から届いた。
「──そろそろ、出る時間ですよ」
返事はせず、ただ立ち上がる。
足音を立てないように歩きながら、智哉は思う。
“準備される”ということは、“使われる前提に立たされている”ということだ。
(選ばれるってことは、きっと……使われるってこと)
分かっている。
でも、分かったところで、どうにもできない。
控室の扉を開けると、廊下の向こう──
まるでタイミングを計っていたかのように、市原が姿を現した。
スーツ姿。けれどいつもよりフォーマルで、ネクタイの色も深みのあるシルバーグレー。
その立ち姿には、飾らない洗練があった。
市原は智哉の姿を見ると、足を止め、微笑んだ。
「……よく似合ってる。やっぱり俺の選び方に間違いなかったね」
“褒め言葉”の形をしていた。
だが、その声の奥には“確認”があった。
この姿が、自分の意図通りに整っているかどうかを測る、静かな満足。
智哉はただ頷く。
反論する気力も、もはや見当たらなかった。
「じゃあ、行こうか」
市原が踵を返す。
智哉は無言でその背中についていく。
エレベーターに乗り込むと、二人きりの密室ができる。
市原は階数のボタンを押し、腕を組んだまましばし無言だった。
その沈黙の中、鏡張りの扉にふたりの姿が並ぶ。
市原がふと、視線を横に滑らせる。
「……セット、してきたんだ?」
「……はい」
「いいね。そのままでいい。変に作り込むより、自然な方がずっといい」
鏡越しに、ふと目が合う。
智哉はすぐに目を逸らした。
でも、その一瞬、市原が何かを測るように自分を見ていた気がした。
(“自然な方がいい”って、どこまで本気だ……)
エレベーターの扉が開く。
静かに歩き出す市原の背を追いかけながら、智哉は息を浅くした。
ビルの前には黒い車が停まっていた。
市原の運転ではない。若い男が無言で運転席に座っている。
ドアが開けられ、無言のまま、後部座席へ乗るよう促される。
智哉が先に乗り込む。続けて市原が隣に腰を下ろすと、すぐにドアが閉まった。
エンジンが静かに始動する。
「今日は、ちょっとした会合があってね。会う人は多くないよ。気にしなくていい」
市原は外を見たまま、落ち着いた声で言った。
「……わかりました」
小さく、けれど確かに答える。
どう返せばいいのかも分からなかった。
市原の右手が、何の前触れもなく、そっと智哉の腿に触れる。
瞬間、身体がこわばる。
「落ち着いて。何もさせない。ただ……隣にいてくれればいい」
その言葉の“本当の意味”は、いつもあとから浮かんでくる。
外の風景が、窓の向こうを滑っていく。
まるで、どこへ向かっているのかを告げる必要など、最初からなかったかのように。