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第20話 視線の意味

(……会う人間が多くない、ってことは……少なくとも、誰かには“会わせる”ってことか)


不安が胸の奥に渦を巻く。

けれど、それを表に出す術がもうなかった。


──市原の手が触れた場所の温度が、まだ残っている気がした。


智哉は車窓の向こうに流れる風景を、ただ目で追っていた。

どこへ向かっているのかは、訊かれなくても察しろということだ。

もしくは、知らないままのほうがいい──と。


車が一度、ゆるやかに左へ曲がる。

市原は前方を見据えたまま、微かに口を開いた。


「緊張してる?」

「……してないです」


嘘だった。

けれど、そう答えることしかできなかった。

“してます”と言っても、何も変わらないのだから。


市原はそれ以上、追及しなかった。

代わりに、わずかに笑った気配があった。

それが「嘘を見抜いた」というサインなのか、「信じたふりをした」のかは、わからない。


そのまま車は、大通りから一本外れた細い坂道に入り、重厚な門構えの建物の前で停車する。

看板も灯りもない。

だが、明らかに“表向きではない誰かのための場所”だと、一目でわかった。


ドアが開く。

市原が先に降り立ち、振り返る。


「行こう」


ドアが開けられ、市原が先に降り立つ。

手を差し出された智哉は、一瞬だけ迷いながらも、その手を取った。


(……この手を取ることで、また“何か”に加担することになるのに)


でも、握らずには歩けなかった。


足音だけが、石畳に落ちる。

通されたのは奥まった座敷。

市原と智哉が腰を下ろすと、やや遅れて、組内でも古参と呼ばれる幹部の男が現れる。


初対面の空気ではなかった。

それでも、どこかざらついた違和感があった。


「うちの娘がね、もうすぐ君くらいの年なんだよ」


幹部の男が、談笑のような口ぶりで言う。

だがその目が向けるものは、明らかに智哉を“値踏みする目”だった。


──見られている。

──「市原の隣にいる存在」として、どういう価値を持っているのかを。


市原は笑みを崩さずに、それを遮るように自然な動作で腰へと手を回す。

そして、ゆっくりと引き寄せながら言った。


「大事な子なんで、あんまり見ちゃだめですよ」


柔らかい声音だった。

けれど、その言葉は、明らかに“線を引く宣言”だった。

幹部の男は「ああ、そりゃ失礼」と苦笑しつつも、明らかに視線を逸らす。


市原はそのまま、何気ない仕草で智哉の髪を撫でる。

それは恋人同士の親密さではなく、“札を貼る”ような仕草だった。


智哉は下を向いたまま、言葉を飲み込む。

この場における自分の立場。

市原が自分を「道具ではなく、盾」として使ったことはわかっていた。


(……違う。“守られた”んじゃない……)


それでも。

腕のなかは、どこか──温かかった。


会合は、それ以上の深入りもなく終わった。

外に出ると、夜の空気は思ったよりも冷たかった。

車へ乗り込む直前、智哉はふと足を止めた。


「……ああやって、俺を“使う”のって……これからよくあるんですか」


問いかけというより、自分の感情を確かめるような言い方だった。

市原はドアの前で立ち止まり、ふっと笑う。


「まあ、そうだね。虫よけにはなるからね。でも──」


その言葉のあとに、迷いはなかった。

市原はそっと、智哉の額へ唇を落とす。


「君をただの“道具”にはしないよ。俺のものだからね」


言葉が、胸に直接落ちた。

拒否も肯定もできない。

ただその“確信の重さ”だけが、喉の奥に留まる。


ドアが開き、車に乗り込む。

密閉された空間。

その沈黙すらも、今はもう──


“日常”の一部だった。


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