(……会う人間が多くない、ってことは……少なくとも、誰かには“会わせる”ってことか)
不安が胸の奥に渦を巻く。
けれど、それを表に出す術がもうなかった。
──市原の手が触れた場所の温度が、まだ残っている気がした。
智哉は車窓の向こうに流れる風景を、ただ目で追っていた。
どこへ向かっているのかは、訊かれなくても察しろということだ。
もしくは、知らないままのほうがいい──と。
車が一度、ゆるやかに左へ曲がる。
市原は前方を見据えたまま、微かに口を開いた。
「緊張してる?」
「……してないです」
嘘だった。
けれど、そう答えることしかできなかった。
“してます”と言っても、何も変わらないのだから。
市原はそれ以上、追及しなかった。
代わりに、わずかに笑った気配があった。
それが「嘘を見抜いた」というサインなのか、「信じたふりをした」のかは、わからない。
そのまま車は、大通りから一本外れた細い坂道に入り、重厚な門構えの建物の前で停車する。
看板も灯りもない。
だが、明らかに“表向きではない誰かのための場所”だと、一目でわかった。
ドアが開く。
市原が先に降り立ち、振り返る。
「行こう」
ドアが開けられ、市原が先に降り立つ。
手を差し出された智哉は、一瞬だけ迷いながらも、その手を取った。
(……この手を取ることで、また“何か”に加担することになるのに)
でも、握らずには歩けなかった。
足音だけが、石畳に落ちる。
通されたのは奥まった座敷。
市原と智哉が腰を下ろすと、やや遅れて、組内でも古参と呼ばれる幹部の男が現れる。
初対面の空気ではなかった。
それでも、どこかざらついた違和感があった。
「うちの娘がね、もうすぐ君くらいの年なんだよ」
幹部の男が、談笑のような口ぶりで言う。
だがその目が向けるものは、明らかに智哉を“値踏みする目”だった。
──見られている。
──「市原の隣にいる存在」として、どういう価値を持っているのかを。
市原は笑みを崩さずに、それを遮るように自然な動作で腰へと手を回す。
そして、ゆっくりと引き寄せながら言った。
「大事な子なんで、あんまり見ちゃだめですよ」
柔らかい声音だった。
けれど、その言葉は、明らかに“線を引く宣言”だった。
幹部の男は「ああ、そりゃ失礼」と苦笑しつつも、明らかに視線を逸らす。
市原はそのまま、何気ない仕草で智哉の髪を撫でる。
それは恋人同士の親密さではなく、“札を貼る”ような仕草だった。
智哉は下を向いたまま、言葉を飲み込む。
この場における自分の立場。
市原が自分を「道具ではなく、盾」として使ったことはわかっていた。
(……違う。“守られた”んじゃない……)
それでも。
腕のなかは、どこか──温かかった。
会合は、それ以上の深入りもなく終わった。
外に出ると、夜の空気は思ったよりも冷たかった。
車へ乗り込む直前、智哉はふと足を止めた。
「……ああやって、俺を“使う”のって……これからよくあるんですか」
問いかけというより、自分の感情を確かめるような言い方だった。
市原はドアの前で立ち止まり、ふっと笑う。
「まあ、そうだね。虫よけにはなるからね。でも──」
その言葉のあとに、迷いはなかった。
市原はそっと、智哉の額へ唇を落とす。
「君をただの“道具”にはしないよ。俺のものだからね」
言葉が、胸に直接落ちた。
拒否も肯定もできない。
ただその“確信の重さ”だけが、喉の奥に留まる。
ドアが開き、車に乗り込む。
密閉された空間。
その沈黙すらも、今はもう──
“日常”の一部だった。