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第21話 境界の輪郭

車の揺れが、思考を散らしていく。


帰路の車内は、無音だった。

市原はスマートフォンを眺め、何か短く指示を飛ばしている。

運転手は視線を前に固定したまま、状況に対して何の反応も見せなかった。


(……「俺のもの」って、今さら)


耳に残るその言葉の感触が、智哉の胸に奇妙な余韻を残していた。


本来なら、怒るか、拒絶するかすべきだった。

でももう、自分はそのどちらもできない場所に来てしまっている。


この沈黙も、眼差しも、指先の距離さえ──


すべてが“慣れてしまった”ものになりつつある。


自宅に戻ったのは、夜も深まった時間だった。

玄関のドアが閉まり、リビングの灯りが灯る。


「先にシャワー、使っていいよ」


市原のその声に、智哉はただ頷いた。


リビングを出て洗面所へ向かいながら、ふと後ろを振り返る。

市原は背を向けていた。



シャワーから上がってリビングに戻ると、市原の前に見知らぬ男がいた。

整った顔立ち。無造作な髪。どこか気だるげで、けれど視線だけは鋭い。


「あ、これが……智哉くん?」


軽く片手を挙げて笑ったその男は、市原の大学時代の同期──らしい。

名前は「東條」。いまは関連会社の役員をしているという。

智哉が礼を言いかけるより先に、東條は隣に座っていたソファをぽんと叩いた。


「こっち来てよ、話してみたかったんだよね」


少し躊躇いながらも、智哉は市原の視線を気にしつつソファの端に腰を下ろす。


「へぇ、こんな子を囲ってるとは思わなかったなあ。……ねえ、市原くん、こういう趣味、昔からだったっけ?」


軽口に混じる“試すような色”。

東條は笑っていたが、その指が、わずかに智哉の髪に触れた瞬間──


「……触らないで」


市原の声が、低く静かに落ちた。

部屋の空気が、ひと息で冷えた。

東條はひるむでもなく、肩をすくめて笑うと、自分の前のグラスを空けて立ち上がった。


「はいはい、ごめんごめん。嫉妬深いなあ。……ま、気持ちはわかるけど。じゃあね、智哉くん」


そう言って、ひらひらと手を振りながら帰っていった。


扉が閉まった数秒後。

リビングに残された空気だけが、妙に重くなる。


「……ごめんなさい、俺……」


重苦しさに出たのは、謝罪だった。

何が悪かったのか、正確にはわからない。

市原はゆっくりと立ち上がり、智哉に近づく。


「……ねえ、智哉。自覚ある?」


耳元で、囁くように言う。

触れていないはずの指先が、肌を這うような錯覚を生んだ。

そのまま、智哉の顎に指を添えて顔を上げさせる。


「さっき、どんな風に見られてたのか……わかってる?」


言葉が、じわじわと体温を奪っていく。

逃げられない。けれど、怖いとも言えない。

智哉はただ、目を伏せた。


市原の指が、喉元をなぞるように動いた。

触れてはいない。けれど、指先の軌道を肌が記憶する。


「……君が無防備すぎるんだよ」


低く落とされた声。

その響きに、身体の奥がわずかに反応してしまう。


「……ちが、俺……そんなつもりじゃ……」

「じゃあ、何のつもりだったの?」


顔が近い。息の熱が頬にかかる。

逃げようとするも、すぐに後ろのソファに押し戻される。


「東條が君に触れたとき、何も言わなかったよね。俺がいなかったら、どうするつもりだった?」


その言葉の端々に、怒りというより“独占欲”が滲んでいた。


「……俺、何もしてないです」

「そうだね、してない。でも、されたよね」


智哉の頬に手が添えられ、わずかに顔が傾けられる。

そのまま、唇が触れる直前で止まった。


「智哉が“全て俺のもの”って、どうやって証明しようか」


市原の唇が、かすめるだけのキスを落とす。

けれど、そこに“触れ合い”の意味はない。

それは支配と所有の宣言だった。


深く触れられていないのに、心が縛られる。

痛くもないのに、どこか苦しい。


「……誰に微笑んでいいかも、俺が決めることだよ?」


その声は静かだった。

けれど、ふいに指先が顎を掬い上げる。


「……っ、なに言って……」


言いかけた言葉の上に、また、唇が触れる。

それもさっきと同じでほんの一瞬、けれど完全に口を塞ぐような、制止のキス。


「君の表情も声も、全部、俺が持ってる」


まるで当たり前のことを確認するような口調だった。


「涙の一つ、微笑み一つすら、俺のものだよ。忘れないでね」


その言葉に、智哉は反論できなかった。

声にならない息が喉に引っかかる。


(……誰かに見せた笑顔さえ、許されない)


ぞくりとした感覚が、背骨を這う。


けれど同時に、それが「縛られていること」よりも、「望まれていること」にすり替わってしまいそうな自分が、もっと怖かった。

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