市原がシャワーを浴びに浴室へ向かった後。
リビングにひとり取り残された智哉は、ソファに深く沈み込みながら、膝を抱くようにして座っていた。
静寂が、喉の奥にひりつく。
(……眠れそうにない)
身体に残った熱が、逆に落ち着かなかった。
時計が時間を刻むリズムすら、どこか不安を煽るようだった。
今この時間、部屋の中には“自分しかいない”。
でも、孤独ではなかった。
むしろ、誰かに見られているような、視線の残像に囲まれていた。
自室に戻ってみたが、ベッドに腰を下ろしても、じっとしていられなかった。枕の感触が落ち着かない。
まるで、ここが“自分の場所じゃない”と言われているようで。
──結局、またリビングへ戻った。
手元のスマホをいじってみる。
けれど、連絡先の一覧を眺めても、指が動かない。
(誰に……何を……)
“逃げる”という行動に結びつくような選択肢は、どこにもなかった。
誰かに助けを求めるとして、その「誰か」が思い浮かばなかった。
(俺、もう……)
そのとき、ふと、頭の中にぼやけた記憶が浮かんできた。
──あの日。
残されていた、一枚の紙切れ。
《ちょっと出てくる》
たったそれだけ。書かれたのは丸い字だった。母親の筆跡。
けれど、その日を境に、二人は二度と戻ってこなかった。
衣類も、通帳も、洗面所の歯ブラシすら残したまま──
「……あれが、“自由”ってやつなわけない」
呟いた言葉が、誰にも届かないリビングの空気に溶けていく。
自由になったんじゃない。捨てられただけだ。
ソファに膝を抱えたまま、しばらく俯いていた智哉は、ふと背後の気配に気づいた。
「……どうしたの?」
市原の声だった。
音もなく、いつのまにか背後に立っていた。
濡れた髪から滴る水が、まだ襟足に残っている。バスローブ姿のまま、ゆっくりと近づいてくる。
「……いや、なんでもないです」
誤魔化すように首を振る。けれど、市原はそのまま隣に腰を下ろし、自然な動きで手を差し出した。
「じゃあ、一緒に寝ようか」
軽い誘いだった。でも、それは拒めない“提案”だった。
智哉の手を取ると、市原はすっと立ち上がる。
引かれるままに歩く。その腕の力は強くなかった。けれど、抗おうという選択肢が浮かばなかった。
──市原の部屋。
ベッドのシーツは整っていた。湿った空気がまだ少し残っている。
灯りを落とし、ベッドに並んで横になる。
市原がゆっくりと腕を回してくる。
背中から抱き込まれるその体勢に、智哉は小さく息を詰めた。
静かだった。何もされていない。ただ、包み込むように触れられているだけ。
──でも、身体の内側のどこかで、軋む音がした。
(ここで拒めたら、きっと……まだ“俺”だった)
けれど、もう拒否する自分がどこにいるのか、わからなかった。
思考の奥が、ふわりと曖昧になっていく。
熱くも冷たくもない。けれど、たしかに心の輪郭がにじんでいく。
そのとき、市原がぽつりと聞いた。
「今、何考えてる?」
問いかけは穏やかだ。
シャワーの前までは“隠された”不機嫌が浮かんでいたように思う。
(……何か、もう……何も)
智哉はしばらく黙ったまま、目を閉じた。
そして、嘘でもごまかしでもなく──
「……わかんない」
それだけを、そっと落とした。
それが答えになるとも、救いになるとも思わなかった。
ただ、その瞬間の“正直”だけが、自分の中に残っている「。
市原はそれを聞くと、智哉の後ろ頭に唇を寄せた。
「智哉らしいね」
そう呟いた声には、笑みが混じっていた。