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第22話 夜の底で

市原がシャワーを浴びに浴室へ向かった後。

リビングにひとり取り残された智哉は、ソファに深く沈み込みながら、膝を抱くようにして座っていた。

静寂が、喉の奥にひりつく。


(……眠れそうにない)


身体に残った熱が、逆に落ち着かなかった。

時計が時間を刻むリズムすら、どこか不安を煽るようだった。


今この時間、部屋の中には“自分しかいない”。


でも、孤独ではなかった。

むしろ、誰かに見られているような、視線の残像に囲まれていた。


自室に戻ってみたが、ベッドに腰を下ろしても、じっとしていられなかった。枕の感触が落ち着かない。

まるで、ここが“自分の場所じゃない”と言われているようで。


──結局、またリビングへ戻った。


手元のスマホをいじってみる。

けれど、連絡先の一覧を眺めても、指が動かない。


(誰に……何を……)


“逃げる”という行動に結びつくような選択肢は、どこにもなかった。

誰かに助けを求めるとして、その「誰か」が思い浮かばなかった。


(俺、もう……)


そのとき、ふと、頭の中にぼやけた記憶が浮かんできた。


──あの日。

残されていた、一枚の紙切れ。


《ちょっと出てくる》


たったそれだけ。書かれたのは丸い字だった。母親の筆跡。

けれど、その日を境に、二人は二度と戻ってこなかった。

衣類も、通帳も、洗面所の歯ブラシすら残したまま──


「……あれが、“自由”ってやつなわけない」


呟いた言葉が、誰にも届かないリビングの空気に溶けていく。


自由になったんじゃない。捨てられただけだ。


ソファに膝を抱えたまま、しばらく俯いていた智哉は、ふと背後の気配に気づいた。


「……どうしたの?」


市原の声だった。

音もなく、いつのまにか背後に立っていた。


濡れた髪から滴る水が、まだ襟足に残っている。バスローブ姿のまま、ゆっくりと近づいてくる。


「……いや、なんでもないです」


誤魔化すように首を振る。けれど、市原はそのまま隣に腰を下ろし、自然な動きで手を差し出した。


「じゃあ、一緒に寝ようか」


軽い誘いだった。でも、それは拒めない“提案”だった。


智哉の手を取ると、市原はすっと立ち上がる。

引かれるままに歩く。その腕の力は強くなかった。けれど、抗おうという選択肢が浮かばなかった。


──市原の部屋。


ベッドのシーツは整っていた。湿った空気がまだ少し残っている。


灯りを落とし、ベッドに並んで横になる。


市原がゆっくりと腕を回してくる。

背中から抱き込まれるその体勢に、智哉は小さく息を詰めた。


静かだった。何もされていない。ただ、包み込むように触れられているだけ。


──でも、身体の内側のどこかで、軋む音がした。


(ここで拒めたら、きっと……まだ“俺”だった)


けれど、もう拒否する自分がどこにいるのか、わからなかった。


思考の奥が、ふわりと曖昧になっていく。

熱くも冷たくもない。けれど、たしかに心の輪郭がにじんでいく。


そのとき、市原がぽつりと聞いた。


「今、何考えてる?」


問いかけは穏やかだ。

シャワーの前までは“隠された”不機嫌が浮かんでいたように思う。


(……何か、もう……何も)


智哉はしばらく黙ったまま、目を閉じた。

そして、嘘でもごまかしでもなく──


「……わかんない」


それだけを、そっと落とした。


それが答えになるとも、救いになるとも思わなかった。

ただ、その瞬間の“正直”だけが、自分の中に残っている「。

市原はそれを聞くと、智哉の後ろ頭に唇を寄せた。


「智哉らしいね」


そう呟いた声には、笑みが混じっていた。


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