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第23話 静かな夜に沈む

目が覚めたとき、柔らかな光がカーテン越しに射し込んでいた。


視線を横に向けると、市原の顔がすぐそこにあった。

腕が、自分の腰に回っている。呼吸の音が規則的に胸に当たる。

──すぐに身体を引いてもよかった。けれど、それができなかった。


(……あたたかい)


それが最初に感じたことだった。

眠っていたはずの頭が、なぜかその事実だけを繰り返している。

他に何も考えられないほどに、身体の感覚がそちらに傾いていた。


気づけば、まぶたが自然と閉じていた。

しばらくそのまま、もう一度眠ってしまいそうなほど、安堵していた。


でも──


「起きた?」


不意に、耳元に低くかかる声。

振り返ると、市原は目を細めて微笑んでいた。

起き抜けのくせに、整った顔立ちが憎たらしいくらい整っている。


「朝ごはん、用意してあるよ。……食べようか」


誘うようでも、命令でもなく。

まるでずっと前からこうして暮らしてきたかのように、自然な口調だった。


智哉は何も言わず、頷くしかなかった。


リビングに行くと、テーブルには食事が並んでいた。

トースト、ベーコンエッグ、スープ。

どれも凝った料理ではない。けれど、温かい匂いが立ち上るそれらは、まるで「生活」の象徴のようだった。


「どうぞ」


市原が差し出したフォークを受け取り、智哉はゆっくりと手を動かす。


口に運んだスープが、喉を滑っていく。


塩加減もちょうどよかった。

それが、なぜか胸にじわりと沁みた。


「……ありがとう、ございます」


そう呟くと、市原は「うん」とだけ返し、またパンをかじる。


沈黙は、気まずくなかった。

食器の音だけが静かに響いて、部屋の空気を埋めていた。


(なんで……こんなふうに)


「ちょっと出てくる」とだけ書かれた紙切れを最後に、両親はいきなり姿を消した。

何の前触れもなかった。食器も、通帳も、洗濯物も、生活の痕跡だけが残されたまま。


混乱したまま、数時間後には市原の家に連れて来られた。

そのまま、ずっとここにいる。


誰かと食卓を囲むことも、言葉を交わすことも、温かいコーヒーの匂いを感じることも──

全部が、“自分の選択”じゃないまま始まってしまった。


けれど今、自分はこうして「誰かと」朝を迎えている。


「……変なの」


ポツリと出たその声に、市原が首を傾げた。


「何が?」

「あ、いや……なんでも、ないです」


それ以上は言えなかった。

言葉にした瞬間、この空間が何かに“決定づけられてしまいそう”だった。


──この人は、優しい。

怒鳴らないし、無理やりなこともしない。

笑って、料理して、名前を呼んでくれる。


でも。


(……俺がここにいる意味って、なんなんだろう)


安心してる自分がいる。

けれど、それが「安全だから」ではないことを、どこかで理解していた。


この人が笑えば、自分は安心する。

触れられれば、身体が緩む。


でもそのどれもが、“市原誠人”という存在を軸に成り立っている。


(……俺、今、自由なのかな)


パンをちぎりながら、答えの出ない問いが、ぐるぐると脳内を回った。


市原は、気づいているのかいないのか。

食後のコーヒーを淹れながら、「今日どうする?」と訊いてきた。


「どこか行きたいとこあるなら、連れてくよ」


選択肢は、与えられている。

けれどその選択は、「許可された範囲で」しか存在していない。


(檻の中に、ソファもベッドもある。食事も、優しさもある。……でも、それって、檻じゃないのか)


身体の奥で、何かがきしむ音がした。

だが、智哉はただ「どこでもいいです」と答えた。



朝食が終わり、洗い物の音が台所に響く。

ソファに腰を下ろした智哉は、カップを抱えたまま、ぼんやりとその背中を見ていた。


その背中は、まるで“日常”そのもののように見えた。


けれど──そこにあるのは、“優しい檻”だということも、少しずつ、わかってきた気がした。


(……俺は、どうなるんだろう)


まだ、それに名前をつけられない。

ただ、静かに沈んでいく感覚だけが、胸の奥に残った。

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