目が覚めたとき、柔らかな光がカーテン越しに射し込んでいた。
視線を横に向けると、市原の顔がすぐそこにあった。
腕が、自分の腰に回っている。呼吸の音が規則的に胸に当たる。
──すぐに身体を引いてもよかった。けれど、それができなかった。
(……あたたかい)
それが最初に感じたことだった。
眠っていたはずの頭が、なぜかその事実だけを繰り返している。
他に何も考えられないほどに、身体の感覚がそちらに傾いていた。
気づけば、まぶたが自然と閉じていた。
しばらくそのまま、もう一度眠ってしまいそうなほど、安堵していた。
でも──
「起きた?」
不意に、耳元に低くかかる声。
振り返ると、市原は目を細めて微笑んでいた。
起き抜けのくせに、整った顔立ちが憎たらしいくらい整っている。
「朝ごはん、用意してあるよ。……食べようか」
誘うようでも、命令でもなく。
まるでずっと前からこうして暮らしてきたかのように、自然な口調だった。
智哉は何も言わず、頷くしかなかった。
リビングに行くと、テーブルには食事が並んでいた。
トースト、ベーコンエッグ、スープ。
どれも凝った料理ではない。けれど、温かい匂いが立ち上るそれらは、まるで「生活」の象徴のようだった。
「どうぞ」
市原が差し出したフォークを受け取り、智哉はゆっくりと手を動かす。
口に運んだスープが、喉を滑っていく。
塩加減もちょうどよかった。
それが、なぜか胸にじわりと沁みた。
「……ありがとう、ございます」
そう呟くと、市原は「うん」とだけ返し、またパンをかじる。
沈黙は、気まずくなかった。
食器の音だけが静かに響いて、部屋の空気を埋めていた。
(なんで……こんなふうに)
「ちょっと出てくる」とだけ書かれた紙切れを最後に、両親はいきなり姿を消した。
何の前触れもなかった。食器も、通帳も、洗濯物も、生活の痕跡だけが残されたまま。
混乱したまま、数時間後には市原の家に連れて来られた。
そのまま、ずっとここにいる。
誰かと食卓を囲むことも、言葉を交わすことも、温かいコーヒーの匂いを感じることも──
全部が、“自分の選択”じゃないまま始まってしまった。
けれど今、自分はこうして「誰かと」朝を迎えている。
「……変なの」
ポツリと出たその声に、市原が首を傾げた。
「何が?」
「あ、いや……なんでも、ないです」
それ以上は言えなかった。
言葉にした瞬間、この空間が何かに“決定づけられてしまいそう”だった。
──この人は、優しい。
怒鳴らないし、無理やりなこともしない。
笑って、料理して、名前を呼んでくれる。
でも。
(……俺がここにいる意味って、なんなんだろう)
安心してる自分がいる。
けれど、それが「安全だから」ではないことを、どこかで理解していた。
この人が笑えば、自分は安心する。
触れられれば、身体が緩む。
でもそのどれもが、“市原誠人”という存在を軸に成り立っている。
(……俺、今、自由なのかな)
パンをちぎりながら、答えの出ない問いが、ぐるぐると脳内を回った。
市原は、気づいているのかいないのか。
食後のコーヒーを淹れながら、「今日どうする?」と訊いてきた。
「どこか行きたいとこあるなら、連れてくよ」
選択肢は、与えられている。
けれどその選択は、「許可された範囲で」しか存在していない。
(檻の中に、ソファもベッドもある。食事も、優しさもある。……でも、それって、檻じゃないのか)
身体の奥で、何かがきしむ音がした。
だが、智哉はただ「どこでもいいです」と答えた。
※
朝食が終わり、洗い物の音が台所に響く。
ソファに腰を下ろした智哉は、カップを抱えたまま、ぼんやりとその背中を見ていた。
その背中は、まるで“日常”そのもののように見えた。
けれど──そこにあるのは、“優しい檻”だということも、少しずつ、わかってきた気がした。
(……俺は、どうなるんだろう)
まだ、それに名前をつけられない。
ただ、静かに沈んでいく感覚だけが、胸の奥に残った。