カーテン越しの午後の光が、ガラスのテーブルに柔らかく反射していた。
そのカフェは市原の事務所の近くにあり、仕事の合間に智哉もたまにくる場所。
打ち合わせ帰りの東條とばったり鉢合わせたのは、偶然だった。
東條は市原の大学時代の同期だという。
緩くまとめた黒髪が肩に触れ、無造作に垂れた前髪が瞳を隠す。
柔らかく笑う表情の奥に、どこか底が見えない男だった。
「やっぱり君だったんだ」
そう言って、彼は迷いのない足取りで智哉の隣に腰を下ろす。
目の前には、空いた椅子と、まだ片づけられていない手付かずの水が入ったグラス。まるで、待っていたかのようなタイミングだった。
「この前、挨拶もろくにできなかったからさ。あらためて――東條っていいます。市原とは、大学の同期でね。あいつとは卒業してからも、ちょくちょく仕事で関わってるよ」
軽い口調。でも、その目線は油断がなかった。
“仕事”で関わる──ということは東條の生業も市原と同じだと想像はつく。
智哉は一拍遅れて頭を下げた。
名前を名乗る前に、東條は笑みを浮かべながら続けた。
「君のこと、見たことあるんだよね。……正確には、市原の隣にいる“君”を、だけど」
“見たことがある”
その言葉の温度が、無意識に体をこわばらせた。
「何度かね、向こうのビルのロビーとか。あいつに呼ばれて出てきた時、偶然見かけたんだ。まあ、市原が何かを隠し切れるタイプじゃないって、知ってるからさ」
東條は言いながら、手元のグラスの水をくるくると回す。
「……で、相原智哉くんで合ってるよね?」
その一言に、智哉の胸がわずかに跳ねた。
(――なんで、名前を……いや、市原さんが伝えたかもしれない、し)
言いかけた声が喉に詰まる。
東條は構わずに言葉を続けた。
「で、今日はちゃんと君の名前――“智哉”くんって呼べるかなって思って」
柔らかな声音。
けれど、その響きが、どこか鋭く胸の奥に触れてくる。
(……名前を呼ばれるのって、こんなふうだったっけ)
市原はいつも「智哉」と呼ぶ。
事務所の人間も「相原くん」と、丁寧に扱ってくれる。
でも、そこには役割や関係性が常についてまわる。呼ばれるたび、自分が“誰かのもの”であることを思い知らされる。
東條の「智哉」は、それらとは少し違っていた。
軽い口調なのに、奇妙に真っ直ぐで――まるで、自分という存在を名前ごと手のひらで掬われたような感覚。
「呼び名で認められるって、すごく心地いいものだよね。アイデンティティって、大きい」
その言葉に、鼓動がひとつだけ跳ねた。
(俺の“名前”は、いつも“誰かのもの”だった気がする)
「智哉」は、誰にも属さずに存在できたことなんてあっただろうか。
東條の言葉と視線が、その“隙間”を射抜いてくる。
その時、東條の指先が小さく、智哉の髪をなでるように触れた。
「……触らないでください」
智哉の声だった。
自分でも驚くほど、静かではっきりしていた。
東條は目を細めて、その手を引っ込めた。
「ごめんごめん。つい。……ねえ、市原には、そうやって言えてるの?」
その問いに、答えはなかった。
ただ、その視線がすべてを見透かしているようで、背筋が凍った。
「やっぱり、あいつに飼われてるだけじゃ、もったいないね」
東條は立ち上がり、ジャケットの裾を軽く払った。
「じゃ、また会おう。今度は何か美味しいもの──君が食べたいものを奢ってあげるよ」
そう言って、ひらひらと手を振りながら、カフェの出口に向かっていく。
その後ろ姿は、軽やかなのに、どこか妙に記憶に残る。
“また会おう”という言葉が、脅しでも冗談でもなく、予告のように感じられた。
智哉はゆっくりと椅子に背を預けた。
心の奥に、冷たい水がひとしずく落ちたような感覚があった。
名前を呼ばれたこと。
それだけで、自分が今どれだけ、名前のない日々を生きていたのかを、突きつけられた気がした。
そして、心のどこかが――小さく、きしんだ。