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第31話 正しい名前

カーテン越しの午後の光が、ガラスのテーブルに柔らかく反射していた。

そのカフェは市原の事務所の近くにあり、仕事の合間に智哉もたまにくる場所。

打ち合わせ帰りの東條とばったり鉢合わせたのは、偶然だった。


東條は市原の大学時代の同期だという。

緩くまとめた黒髪が肩に触れ、無造作に垂れた前髪が瞳を隠す。

柔らかく笑う表情の奥に、どこか底が見えない男だった。


「やっぱり君だったんだ」


そう言って、彼は迷いのない足取りで智哉の隣に腰を下ろす。

目の前には、空いた椅子と、まだ片づけられていない手付かずの水が入ったグラス。まるで、待っていたかのようなタイミングだった。


「この前、挨拶もろくにできなかったからさ。あらためて――東條っていいます。市原とは、大学の同期でね。あいつとは卒業してからも、ちょくちょく仕事で関わってるよ」


軽い口調。でも、その目線は油断がなかった。

“仕事”で関わる──ということは東條の生業も市原と同じだと想像はつく。


智哉は一拍遅れて頭を下げた。

名前を名乗る前に、東條は笑みを浮かべながら続けた。


「君のこと、見たことあるんだよね。……正確には、市原の隣にいる“君”を、だけど」


“見たことがある”

その言葉の温度が、無意識に体をこわばらせた。


「何度かね、向こうのビルのロビーとか。あいつに呼ばれて出てきた時、偶然見かけたんだ。まあ、市原が何かを隠し切れるタイプじゃないって、知ってるからさ」


東條は言いながら、手元のグラスの水をくるくると回す。


「……で、相原智哉くんで合ってるよね?」


その一言に、智哉の胸がわずかに跳ねた。


(――なんで、名前を……いや、市原さんが伝えたかもしれない、し)


言いかけた声が喉に詰まる。

東條は構わずに言葉を続けた。


「で、今日はちゃんと君の名前――“智哉”くんって呼べるかなって思って」


柔らかな声音。

けれど、その響きが、どこか鋭く胸の奥に触れてくる。


(……名前を呼ばれるのって、こんなふうだったっけ)


市原はいつも「智哉」と呼ぶ。

事務所の人間も「相原くん」と、丁寧に扱ってくれる。

でも、そこには役割や関係性が常についてまわる。呼ばれるたび、自分が“誰かのもの”であることを思い知らされる。


東條の「智哉」は、それらとは少し違っていた。

軽い口調なのに、奇妙に真っ直ぐで――まるで、自分という存在を名前ごと手のひらで掬われたような感覚。


「呼び名で認められるって、すごく心地いいものだよね。アイデンティティって、大きい」


その言葉に、鼓動がひとつだけ跳ねた。


(俺の“名前”は、いつも“誰かのもの”だった気がする)


「智哉」は、誰にも属さずに存在できたことなんてあっただろうか。

東條の言葉と視線が、その“隙間”を射抜いてくる。

その時、東條の指先が小さく、智哉の髪をなでるように触れた。


「……触らないでください」


智哉の声だった。

自分でも驚くほど、静かではっきりしていた。

東條は目を細めて、その手を引っ込めた。


「ごめんごめん。つい。……ねえ、市原には、そうやって言えてるの?」


その問いに、答えはなかった。

ただ、その視線がすべてを見透かしているようで、背筋が凍った。


「やっぱり、あいつに飼われてるだけじゃ、もったいないね」


東條は立ち上がり、ジャケットの裾を軽く払った。


「じゃ、また会おう。今度は何か美味しいもの──君が食べたいものを奢ってあげるよ」


そう言って、ひらひらと手を振りながら、カフェの出口に向かっていく。

その後ろ姿は、軽やかなのに、どこか妙に記憶に残る。


“また会おう”という言葉が、脅しでも冗談でもなく、予告のように感じられた。


智哉はゆっくりと椅子に背を預けた。

心の奥に、冷たい水がひとしずく落ちたような感覚があった。


名前を呼ばれたこと。

それだけで、自分が今どれだけ、名前のない日々を生きていたのかを、突きつけられた気がした。


そして、心のどこかが――小さく、きしんだ。


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