カーテンの隙間から差し込む薄明かりが、寝室の空気をやわらかく包み込んでいた。
智哉は重いまぶたを開ける。
自分の身体が――誰かに抱きしめられていることに、ぎこちなく気づく。
温もりは確かだった。
後ろから回された腕が、ぴたりと背中を支え、呼吸が静かに重なっていた。
意識がぼんやりとして、なぜこうしているのかさえ、すぐには思い出せなかった。
(……市原さんは、俺を逃がしたいのだろうか……?)
胸の奥に、ひそやかな問いがこだまする。
昨夜の熱と看病、そして二人で迎えた朝。
そこには「逃げられるチャンス」があった。
でも、智哉はそれを選ばず、結局ここにいる。
視線は暗闇の向こうに漂い、何かを求めるように、唇が震えた。
「……市原さん」
名前を読んでみる。
声はかすれて、自分の声とも思えなかった。
それでも、呟かずにはいられなかった。
懇願でも拒絶でもない、ただ名前が重く、胸に突き刺さった。
あの頃の、幼い頃の市原が心の中にまざまざと浮かんできた。
大好きだった、年上の先輩。
いつも世話を焼いてくれたように思う。
「……市原さん……」
もう一度、名前を呼ぶ。
起きている様子はない。
月の下で市原の整った顔が浮かび上がっていた。
何かに突き動かされるように、あるいはずっと胸の奥で芽吹いていた感情に、ついに触れてしまったように。智哉はそっと、けれど確かな意志で唇を重ねた。
ぴったりと唇が重なり、息が触れ、指が市原の寝巻きを握る。
全てを恐れながらも、身体が自分の意思に逆らっていない証だった。
唇が離れる。静寂と、二人の息遣いだけが室内を支配する。
その余韻も与えぬように、市原の唇が追いかけてきた。
まるで――『お前を逃がさない』と告げるように。
「ん、ぁ……っ」
──深く、貪るように。
柔らかな舌が絡みつき、唇が再び強く押し込まれ、身体が震えた。強いけれど痛くはない。
これは“お前は俺のものだ”という、優しさと支配の混ざった宣言にも思えた。
智哉も、抗わない。抗えない。
呼吸と鼓動が混ざり、頭の奥がまるで洪水のように溢れてくる。
名前を呟いた瞬間に崩れ始めた堤防は、今やもう、戻れない大河となっていた。
んっ、と小さな声が漏れる。
市原の唇がぴたりと止まり、指がそっと額へ滑っていく。
求めるような目が乱れる影を映し、それを智哉も見返す。
「…可愛いね、智哉」
声は囁きだった。けれど、その音さえ、身体の奥に沈んでいった。
智哉はただ、彼に寄り添うように身体を縮める。その距離の中で、怖さと安堵が同時に胸の内で膨らんでいく。
──戻れる場所は、とうに失くしていたのかもしれない。
そう思えば、こうして抱きしめられていることすら、救いに感じた。
甘くて痛い実感が、自分の身体全体を支配していた。
小さな光が再び差し込んで、二人を照らし出す。
動かなくてもいい。
沈黙の中で重なる存在だけを確かめながら、智哉は目を閉じた。