目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第30話 どこにも戻れない

カーテンの隙間から差し込む薄明かりが、寝室の空気をやわらかく包み込んでいた。

智哉は重いまぶたを開ける。

自分の身体が――誰かに抱きしめられていることに、ぎこちなく気づく。


温もりは確かだった。

後ろから回された腕が、ぴたりと背中を支え、呼吸が静かに重なっていた。


意識がぼんやりとして、なぜこうしているのかさえ、すぐには思い出せなかった。


(……市原さんは、俺を逃がしたいのだろうか……?)


胸の奥に、ひそやかな問いがこだまする。

昨夜の熱と看病、そして二人で迎えた朝。

そこには「逃げられるチャンス」があった。

でも、智哉はそれを選ばず、結局ここにいる。


視線は暗闇の向こうに漂い、何かを求めるように、唇が震えた。


「……市原さん」


名前を読んでみる。

声はかすれて、自分の声とも思えなかった。

それでも、呟かずにはいられなかった。

懇願でも拒絶でもない、ただ名前が重く、胸に突き刺さった。


あの頃の、幼い頃の市原が心の中にまざまざと浮かんできた。

大好きだった、年上の先輩。

いつも世話を焼いてくれたように思う。


「……市原さん……」


もう一度、名前を呼ぶ。

起きている様子はない。


月の下で市原の整った顔が浮かび上がっていた。

何かに突き動かされるように、あるいはずっと胸の奥で芽吹いていた感情に、ついに触れてしまったように。智哉はそっと、けれど確かな意志で唇を重ねた。


ぴったりと唇が重なり、息が触れ、指が市原の寝巻きを握る。

全てを恐れながらも、身体が自分の意思に逆らっていない証だった。

唇が離れる。静寂と、二人の息遣いだけが室内を支配する。

その余韻も与えぬように、市原の唇が追いかけてきた。

まるで――『お前を逃がさない』と告げるように。


「ん、ぁ……っ」


──深く、貪るように。


柔らかな舌が絡みつき、唇が再び強く押し込まれ、身体が震えた。強いけれど痛くはない。

これは“お前は俺のものだ”という、優しさと支配の混ざった宣言にも思えた。


智哉も、抗わない。抗えない。


呼吸と鼓動が混ざり、頭の奥がまるで洪水のように溢れてくる。

名前を呟いた瞬間に崩れ始めた堤防は、今やもう、戻れない大河となっていた。


んっ、と小さな声が漏れる。

市原の唇がぴたりと止まり、指がそっと額へ滑っていく。

求めるような目が乱れる影を映し、それを智哉も見返す。


「…可愛いね、智哉」


声は囁きだった。けれど、その音さえ、身体の奥に沈んでいった。


智哉はただ、彼に寄り添うように身体を縮める。その距離の中で、怖さと安堵が同時に胸の内で膨らんでいく。


──戻れる場所は、とうに失くしていたのかもしれない。


そう思えば、こうして抱きしめられていることすら、救いに感じた。

甘くて痛い実感が、自分の身体全体を支配していた。


小さな光が再び差し込んで、二人を照らし出す。

動かなくてもいい。

沈黙の中で重なる存在だけを確かめながら、智哉は目を閉じた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?