カップに注いだ白湯を両手で包みながら、智哉はソファに腰を下ろしていた。
窓の外には、午後の光がカーテン越しに滲んでいる。
静かな部屋に、時計の針の音がひとつ、またひとつと響いていた。
市原は今、穏やかに眠っていた。
ベッドに再び横たわった彼は、昨夜よりも表情が穏やかだった。
額に滲んでいた汗も引き、頬の赤みもわずかに和らいでいる。
胸の上下が、一定のリズムを刻んでいた。
智哉はそっと息を吐いた。
(……あんなふうに、穏やかな顔で眠るんだ)
白湯を口に含みながら、思い出す。
市原が倒れる姿を見るのは初めてだった。
いつもは強くて、冷静で、何もかも掌握していたはずの人が、こうして熱にうなされ、弱っている。
その姿に、なぜか「ほっとした」ような気持ちが、一瞬よぎった。
自分が支える立場になることで、何かしらの“均衡”が生まれたような錯覚があったのかもしれない。
(……俺が、いないと困るんだって、思いたいのか)
その思考に自分で気づいて、胸の奥がかすかに疼いた。
智哉は立ち上がり、キッチンへ向かう。温め直していたスープの匂いが、静かな空間に広がっていく。コンロの火を消すと、グラスに水を注ぎ、そのままカウンターにもたれた。
数時間前、布団の中で、市原が言った言葉が頭をよぎる。
──今なら、逃げられるかもしれないよ?
あれは本音だったのか。熱に浮かされた戯言だったのか。
けれど、あのときドアを開けて外に出る想像をしたとき、智哉は恐ろしくなってしまった。
(……逃げた先に、俺の“居場所”って、あるんだろうか)
大学にも行っていない。
家族とも縁が切れている。
友達もいない。
“市原のところにいる俺”以外、自分の姿が思い浮かばなかった。
前までは確かにあった。市原といない自分、が確かに存在していた筈だ。
なのに、その自分が気がつけば随分と薄らいでいた。
そんなことを考えていると、足音がゆっくり近づいてくる。
振り返ると、市原がぼんやりした顔でリビングに現れた。パジャマ姿のまま、足を引きずるようにして、カップを手に取る。
「……起きてて大丈夫なんですか?」
思わずそう聞くと、市原は軽く頷いた。
「熱は下がった。……ありがとう、智哉」
そのまま、そっと近づいてきて、何気なく智哉の頭を撫でる。
髪を指先がくぐっていく感触に、智哉はほんの一瞬だけ、息を呑んだ。
その仕草は子ども扱いにも見えたけれど、どこか安心を含んでいた。
ほんの僅かな、それだけの優しさに、気持ちがふっと緩んでしまう自分がいた。
(……この人の側が好きなのかも、しれない)
そう思ってしまった自分に、強い自己嫌悪がのしかかる。
違う、駄目だ。
どうして、もっと強く抗えなかったのか。
どうして、もっと拒めなかったのか。
夜が来て、部屋の空気がまた静かに沈んでいく。
智哉は市原の隣に腰を下ろす。
照明を落とした寝室で、ふたりの呼吸だけが重なっていた。
何も言わず、何も求められない。
ただ市原の腕が伸びてきて、そっと抱き寄せられる。
そのぬくもりに、心が解けていく。
(……怖い)
それなのに、身体は逃げなかった。
ただ、寄りかかるように身を委ねる。
(……この人の体温に、もう俺は安心してる……)
そんな自分を、どこかで責めながら。
それでも智哉は、そのまま目を閉じた。