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第29話 微熱

カップに注いだ白湯を両手で包みながら、智哉はソファに腰を下ろしていた。

窓の外には、午後の光がカーテン越しに滲んでいる。

静かな部屋に、時計の針の音がひとつ、またひとつと響いていた。


市原は今、穏やかに眠っていた。


ベッドに再び横たわった彼は、昨夜よりも表情が穏やかだった。

額に滲んでいた汗も引き、頬の赤みもわずかに和らいでいる。

胸の上下が、一定のリズムを刻んでいた。


智哉はそっと息を吐いた。


(……あんなふうに、穏やかな顔で眠るんだ)


白湯を口に含みながら、思い出す。

市原が倒れる姿を見るのは初めてだった。

いつもは強くて、冷静で、何もかも掌握していたはずの人が、こうして熱にうなされ、弱っている。


その姿に、なぜか「ほっとした」ような気持ちが、一瞬よぎった。


自分が支える立場になることで、何かしらの“均衡”が生まれたような錯覚があったのかもしれない。


(……俺が、いないと困るんだって、思いたいのか)


その思考に自分で気づいて、胸の奥がかすかに疼いた。


智哉は立ち上がり、キッチンへ向かう。温め直していたスープの匂いが、静かな空間に広がっていく。コンロの火を消すと、グラスに水を注ぎ、そのままカウンターにもたれた。


数時間前、布団の中で、市原が言った言葉が頭をよぎる。


──今なら、逃げられるかもしれないよ?


あれは本音だったのか。熱に浮かされた戯言だったのか。


けれど、あのときドアを開けて外に出る想像をしたとき、智哉は恐ろしくなってしまった。


(……逃げた先に、俺の“居場所”って、あるんだろうか)


大学にも行っていない。

家族とも縁が切れている。

友達もいない。


“市原のところにいる俺”以外、自分の姿が思い浮かばなかった。

前までは確かにあった。市原といない自分、が確かに存在していた筈だ。

なのに、その自分が気がつけば随分と薄らいでいた。


そんなことを考えていると、足音がゆっくり近づいてくる。


振り返ると、市原がぼんやりした顔でリビングに現れた。パジャマ姿のまま、足を引きずるようにして、カップを手に取る。


「……起きてて大丈夫なんですか?」


思わずそう聞くと、市原は軽く頷いた。


「熱は下がった。……ありがとう、智哉」


そのまま、そっと近づいてきて、何気なく智哉の頭を撫でる。

髪を指先がくぐっていく感触に、智哉はほんの一瞬だけ、息を呑んだ。


その仕草は子ども扱いにも見えたけれど、どこか安心を含んでいた。

ほんの僅かな、それだけの優しさに、気持ちがふっと緩んでしまう自分がいた。


(……この人の側が好きなのかも、しれない)


そう思ってしまった自分に、強い自己嫌悪がのしかかる。


違う、駄目だ。


どうして、もっと強く抗えなかったのか。

どうして、もっと拒めなかったのか。


夜が来て、部屋の空気がまた静かに沈んでいく。


智哉は市原の隣に腰を下ろす。

照明を落とした寝室で、ふたりの呼吸だけが重なっていた。


何も言わず、何も求められない。

ただ市原の腕が伸びてきて、そっと抱き寄せられる。


そのぬくもりに、心が解けていく。


(……怖い)


それなのに、身体は逃げなかった。

ただ、寄りかかるように身を委ねる。


(……この人の体温に、もう俺は安心してる……)


そんな自分を、どこかで責めながら。

それでも智哉は、そのまま目を閉じた。


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