その夜、市原は珍しく、微熱にうなされていた。
普段のような整った表情はそこにはなく、額にはうっすらと汗が滲み、掠れた声で時折、息を漏らしている。シーツに包まれたその姿からは、いつもの余裕や威圧感は見当たらなかった。
智哉は、少し離れた位置からその寝顔を見つめていた。
胸の奥に、ひりつくような違和感が渦を巻く。
(この人が、弱るなんて――)
その現実は、静かに智哉の内側を突き刺してきた。思っていた以上に深く。
市原はいつだって、与える側だった。保護し、指示し、手綱を持ち続ける人間だった。
自分はただ、その掌の中に収まっていればよかった。
けれど今、役割が反転している。
枕元に置かれた小さな椅子に腰を下ろし、智哉は濡らしたタオルを絞って、そっと額に当てた。
冷たい水が肌を伝い、少しだけ眉間が寄る。
静かな空気の中、市原のかすかな寝息と時計の秒針の音だけが響いていた。
(俺が世話してる……)
その事実が、自分でも信じられなかった。
「…冷たい…」
寝返りのようにわずかに体が揺れ、市原がかすれた声でそう呟いた。
智哉は、反射的に目を伏せた。
言葉が喉元まで来ていたのに、何も出てこない。ただ、氷嚢をそっと額の中心に戻す。
その瞬間、市原の唇がわずかに動いた。
「――お前に看られるのも、悪くないね」
微笑のようなものが口元に浮かんでいる。本音にも、冗談にもとれる、曖昧な温度を孕んだ声だった。
視線を向けると、市原の目が半分だけ開いていて、朦朧とした意識の中でも、智哉を見ていた。冷たい熱に浮かされたようなその瞳に、逃げ場を失う。
胸が、深く締めつけられた。
※
夜が更けていく。
布団の中で、時折、市原が苦しげに呻いたり、短い言葉をもらしたりするたび、智哉はタオルを替えたり、薬の時間を確認したり、静かに動いていた。
母が風邪をひいたときのことを、ふと思い出した。あのとき、自分は何をしただろう。あまり役に立てなかった記憶しかなかったけれど、今は手が自然と動いていた。
(……看病って、こんな感じだったっけ)
考えるというより、ただやるしかなかった。
深夜。市原が眠りの合間に呟いた。
「智哉……今なら、逃げられるかもしれないよ?」
その言葉に、智哉の動きが止まる。
ふいに、何かが剥がれるような感覚がした。
市原は目を閉じたままで、ただぼんやりと呟いたようだった。
熱に浮かされた夢の中の言葉かもしれない。
(……逃げたい、って、思ったこと……ある)
でも、そのままドアを開けて外に出る想像をした瞬間、胸の奥がすうっと冷えた。
(……今ここを出たら、俺は……何者になるんだろう)
大学は休学中。
家族は未だ行方が知れない。
友達とも縁が薄れていった。
“市原のところにいる俺”を除けば、自分という存在を確かめる輪郭がどこにもなかった。
だからかもしれない。
――智哉は、その場に座ったまま、何も選ばず、何も拒まなかった。
そして、いつの間にか、市原の指が布団の中で彼の手を探していた。そっと絡んでくる指先。あたたかくて、どこか頼りなくて、それでも拒絶はできなかった。
(……俺が望んでたのは、こういうこと……?)
問いは問いのまま沈黙し、部屋の空気は冷たく流れていく。
※
朝、淡く白みはじめた光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
智哉は知らぬ間に横になっていた。しかも、市原の隣で。
ぴたりと身体を寄せて眠っていたらしい。
彼の寝息は静かで、額の熱も、少しだけ和らいでいた。
ぬくもりが、布団の中に広がっている。
優しくて、心地よくて、どこか哀しい。
智哉は小さく息を吐いた。
「……優しさって、一番怖いかもしれない」
ぽつりと漏れた言葉は、誰に向けたものでもなかった。
それはただ、音のない檻の形だった。
決して暴力的ではない。なのに、自分を絡めとる。
優しさ、という名の甘い拘束。
この人はこれからも、こうして自分を“守る”のだろうか。
そして自分は、それに何も抗えずに、全部を差し出してしまうのだろうか。
答えは見つからなかった。
けれど、静かに眠る市原の隣にいることが、なぜか“正しい”気がした。
それが“正しい”のではなく、“楽”だからかもしれない。
けれど、その違いにさえ、もう手が届かない気がしていた。