朝。出かける前の廊下で、市原の手がそっと智哉の肩に触れた。
「今日は一人で大丈夫かな?」
その声は柔らかくて、でもどこか、確認を求めている。智哉は軽く息を整え、そっと頷く。
「…はい。ちょっと、カフェに行ってみたくて…」
「いいよ、気をつけて。戻ったら――」
言いかけて市原は口を閉じ、笑った。
※
キスを交わして、市原が先にマンションを出た。
簡単に室内を片付けて、智哉もマンションを出る。
ドアが閉まり、静寂が広がる。
足音だけが大理石に響く。
智哉が向かったのは駅前のカフェだ。
大学の友人と幾度か訪れたことがある。
ガラス越しに見える緑が雨あがりの光をたたえて揺れる。
店内にはボサノヴァが低く流れ、智哉は一人席に腰を下ろした。
頼んだアイスコーヒーは大して待つこともなく、目の前に置かれた。
ひんやりした液体を口に含むと、胸にぽつりと“自由”の気配が落ちてくる。
でも、それが本当かどうか、すぐにわからなくなる。
(知ってる場所なのに……来たことがない、みたいだ……)
胸の奥でばたつく違和感を感じながら、窓の外の風景に視線を寄せた。
言葉は必要なかった。
ただ、自分がここにいるという感覚を探している時間だった。
日が傾きはじめたころ、帰路につく。
ふと足が向いたのは、駅前を少し外れたビルの一室──市原の関係する事務所だった。
智哉が“仕事”を任される場所は大抵ここで、中の人間とも顔見知りになっている。
先ほどのカフェで購入した小さな焼き菓子とコーヒーを片手に、ドアを開ける。
「お疲れさまです」
中には二人の男性。スーツ姿のひとりが、書類から顔を上げた。
「おっ、相原くん? 今日は仕事なかったんじゃない?」
「差し入れです。通りがかりだったんで」
「ありがたいね、甘いものは正義だよ。……にしても、すっかり“身内”じゃん?」
からかうような笑み。
その空気に、重さはない。そしておかしなことに、蟠りもない。
智哉は小さく会釈し、すぐに事務所を後にした。
(……俺、あの中にいることに違和感を感じなかった)
外に出ると、空気が濃く感じられた。ほんの少し、その“世界”に自分が溶け込んでいる感覚があった。
歩調は自然とゆっくりになる。帰る場所があること──その重さを、改めて胸の内に感じる。
夕暮れのマンション。
鍵がかちりと回ると、すぐにキッチンから市原の声が響いた。
「おかえり。どうだった?」
廊下の照明が薄く灯る中、智哉は肩を少しだけ落として、ただ頷いた。
「…特に変わらなくて…あの、事務所に……差し入れをしたんですけど」
市原がそっと近づき、肩に軽くキスをする。その温度は、帰る場所があることの“安心”そのものだった。
「そう。喜んだだろ?気が利くね、智哉」
声の奥には、安心へと収まるための許可が含まれているようだった。
※
夕食と入浴が終わると、当然のように市原は智哉の手を引いて自分の寝室に向かう。
いつのまにか、こんな風になっていた。
室内に小さなライトを残して、ベッドに並ぶ。
市原がそっと横たわり、囁く。
「…こっち向いて」
智哉はうつ伏せに体勢を変え、肩越しに息を整える。
市原が額にそっと口づけた。
「口、開けて…」
その声に命令の気配も含まれていた。
智哉がためらうように唇をゆっくりとほどくと、市原の指が軽く顎を持ち上げ、吐息と共にその唇を塞ぐ。
やわらかな唇が触れ合うと、滑らかな舌先が熱を帯びて侵入してきた。絡み合い、離れ、また絡み合う。
「んっ……」
舌の動きに導かれるままに、智哉はかすかに息をひそめる。
抗うのでも受け入れるのでもなく、ただその甘く痺れるような感触に意識が浸されていく。
淡い蜜を掬い取るような緩慢な舌遣いに、息は徐々に浅く熱く乱れてゆくようだった。
濡れた音が静かな部屋に微かに響き、胸の鼓動と混ざり合った。
舌は、そのまま離れていき、次に頬、首筋へと優しく移動していく。
それは忌まわしくも甘やかで、触れて欲しいと願っていたわけではないのに、身体は震える。
智哉はただ目を閉じ、その余韻に呼吸を合わせる。
市原の息遣いが、自分の奥深くに染み込むようだった。
「……おやすみ、智哉」
囁きと一緒に、指先が背中を撫で上げる。そして包み込むように、腕が首筋へと回った。
その密着に、智哉の“私”と“彼のもの”との境界が、じわりと溶けていく。
智哉は何も言わず、ただ重なる鼓動のリズムに身を委ね、深い眠りへと沈んでいった。