商店街の帰り道。
手提げ袋を片手に、智哉は市原の横を歩いていた。
ほんの少し前に通り雨があったようで、アスファルトが濡れ、足音がいつもより柔らかく響く。
ふと、角を曲がった先。
雑貨屋の前に立って、スマホを見ていた人物の横顔に、目が止まった。
(……あれ)
どこかで見たことがある。脳がそう警鐘を鳴らす。
次の瞬間、記憶がつながった。大学の同級生──たしか、社会学のゼミで何度か顔を合わせた相手。
声をかけようか、と思った。
でも、その声は喉元で詰まり、吐き出せなかった。
足が止まらない。無意識に、視線をそらして通り過ぎる。
(……なんで、声が出なかった?)
簡単なことだったはずなのに、胸の内で何かが凍ったままだった。
頭の奥で、モーターのような不安が軋んでいる。
(俺、今……何者なんだ?)
大学生、という肩書きはもう剥がれている。
市原の部屋に身を置き、学費の支払いも止まり、出席もしていない。
家族もいない。友達もいない。
何者でもなく、誰のものにもなっていないようで──それでいて、“完全に誰かのもの”でもあった。
(……囲われた後輩?それとも、恋人? 所有物……?)
わからない。
でも、わからないまま、日々は進んでいく。
帰宅の道すがら、市原は穏やかに笑っていた。
スーパーの袋を軽々と片手で持ち、何か言いかけては、ふと口を閉じる。
その横顔を見ていると、“安心”と“監視”が紙一重のものに思えてくる。
エントランスを通り、エレベーターの中。
鏡に映った二人の姿は、“自然な同居人”にしか見えなかった。
でも、鏡の中の智哉の表情は、どこか遠い場所を見ていた。
※
部屋の鍵が閉まり、荷物を下ろす音。
市原が洗面所へ向かい、顔を洗う音が微かに聞こえてくる。
冷蔵庫のドアが開き、ペットボトルの水が取り出される。
やがてバスタオルを肩にかけた市原がリビングに戻ってきた。
「さっきの、知り合い?雑貨屋の前」
その言葉に、思わず身体がびくりと反応する。
(……なんで、わかる?)
智哉だってじっと見つめていたわけではない。
恐らくは、ほんの数秒。
市原の訊き方は自然だった。
(まさか、全部……、いや、でも……)
智哉は息を詰めたまま、言葉を探す。
けれど、正解が見つからないまま、曖昧な笑みを浮かべる。
「……大学の……でも、あまり喋ったことなくて」
それは嘘ではなかった。
取り留めて親しい友人ではない。
だから、嘘ではない。
「そう。ならいいんだけどね」
市原は安心したように笑い、近づいてきた。
智哉の頬に手を添え、まるで当たり前のように唇を近づける。
「智哉」
触れるだけのキス。
それは、市原の中で“帰宅の儀式”になっていた。
家を出るとき。
帰ってきたとき。
必ず、キスを交わす。
触れるだけか、深いものかは市原の気分次第だ。
最初は戸惑っていた智哉も、いまでは当たり前のように受け入れている。
(……でも、“おかしい”って思わなくなった自分の方が怖い)
外に出るには、市原の許可が必要だった。
それさえあれば、最近はひとりでの外出の短時間ならば許される。
逆に市原の許可がなければ動けないが、必要性は少ない。
まるで飼い主の顔色をうかがうペットのように、市原の一言を待っている。
(……俺、“ここにいていい”ために、全部差し出してるのかもしれない。初めはおかしいと……思ってたの、に……)
胸の奥に、何かが鈍く沈んでいく。
浴室から、水音が響く。
シャワーの音と、排水の音。
日常の音が、静かに空間を満たしていく。
“自分”の輪郭が、日ごとに薄れていく。
いつの間にか、何が“自分の意志”で、何が“市原の影響”なのかも曖昧になっていた。
(……どこまでが、俺なんだろう)
そんな自問自答は日々に大きくなってくるようだった。
その答えが出ないまま、智哉はただ、息をひそめるようにソファへ腰を下ろした。
時計の秒針だけが、静かに時を刻んでいた。