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第26話 どこまでが自分か

商店街の帰り道。

手提げ袋を片手に、智哉は市原の横を歩いていた。

ほんの少し前に通り雨があったようで、アスファルトが濡れ、足音がいつもより柔らかく響く。


ふと、角を曲がった先。

雑貨屋の前に立って、スマホを見ていた人物の横顔に、目が止まった。


(……あれ)


どこかで見たことがある。脳がそう警鐘を鳴らす。

次の瞬間、記憶がつながった。大学の同級生──たしか、社会学のゼミで何度か顔を合わせた相手。


声をかけようか、と思った。

でも、その声は喉元で詰まり、吐き出せなかった。


足が止まらない。無意識に、視線をそらして通り過ぎる。


(……なんで、声が出なかった?)


簡単なことだったはずなのに、胸の内で何かが凍ったままだった。

頭の奥で、モーターのような不安が軋んでいる。


(俺、今……何者なんだ?)


大学生、という肩書きはもう剥がれている。

市原の部屋に身を置き、学費の支払いも止まり、出席もしていない。


家族もいない。友達もいない。

何者でもなく、誰のものにもなっていないようで──それでいて、“完全に誰かのもの”でもあった。


(……囲われた後輩?それとも、恋人? 所有物……?)


わからない。

でも、わからないまま、日々は進んでいく。


帰宅の道すがら、市原は穏やかに笑っていた。

スーパーの袋を軽々と片手で持ち、何か言いかけては、ふと口を閉じる。


その横顔を見ていると、“安心”と“監視”が紙一重のものに思えてくる。


エントランスを通り、エレベーターの中。

鏡に映った二人の姿は、“自然な同居人”にしか見えなかった。

でも、鏡の中の智哉の表情は、どこか遠い場所を見ていた。



部屋の鍵が閉まり、荷物を下ろす音。

市原が洗面所へ向かい、顔を洗う音が微かに聞こえてくる。


冷蔵庫のドアが開き、ペットボトルの水が取り出される。


やがてバスタオルを肩にかけた市原がリビングに戻ってきた。


「さっきの、知り合い?雑貨屋の前」


その言葉に、思わず身体がびくりと反応する。


(……なんで、わかる?)


智哉だってじっと見つめていたわけではない。

恐らくは、ほんの数秒。

市原の訊き方は自然だった。


(まさか、全部……、いや、でも……)


智哉は息を詰めたまま、言葉を探す。

けれど、正解が見つからないまま、曖昧な笑みを浮かべる。


「……大学の……でも、あまり喋ったことなくて」


それは嘘ではなかった。

取り留めて親しい友人ではない。

だから、嘘ではない。


「そう。ならいいんだけどね」


市原は安心したように笑い、近づいてきた。

智哉の頬に手を添え、まるで当たり前のように唇を近づける。


「智哉」


触れるだけのキス。

それは、市原の中で“帰宅の儀式”になっていた。


家を出るとき。

帰ってきたとき。

必ず、キスを交わす。

触れるだけか、深いものかは市原の気分次第だ。


最初は戸惑っていた智哉も、いまでは当たり前のように受け入れている。


(……でも、“おかしい”って思わなくなった自分の方が怖い)


外に出るには、市原の許可が必要だった。

それさえあれば、最近はひとりでの外出の短時間ならば許される。

逆に市原の許可がなければ動けないが、必要性は少ない。


まるで飼い主の顔色をうかがうペットのように、市原の一言を待っている。


(……俺、“ここにいていい”ために、全部差し出してるのかもしれない。初めはおかしいと……思ってたの、に……)


胸の奥に、何かが鈍く沈んでいく。


浴室から、水音が響く。

シャワーの音と、排水の音。

日常の音が、静かに空間を満たしていく。


“自分”の輪郭が、日ごとに薄れていく。

いつの間にか、何が“自分の意志”で、何が“市原の影響”なのかも曖昧になっていた。


(……どこまでが、俺なんだろう)


そんな自問自答は日々に大きくなってくるようだった。

その答えが出ないまま、智哉はただ、息をひそめるようにソファへ腰を下ろした。

時計の秒針だけが、静かに時を刻んでいた。


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