玄関の鍵が締まる音とほぼ同時に、市原はリビングに姿を現した。手には紙袋を下げていて、ポケットでスマホが微かに震えている。
「ただいま」
問いかけるように一言。返事の前に、市原はためらいもなく智哉に近づいた。そして──
唇が触れた。だけでは終わらない。
深く、身体ごと引き込まれるほどに、唇も舌も執拗に絡んできた。
逃げ場のない静寂の中、身体も思考も凍りつくようだった。
少しずつ、深い接触が増えてきていた。
やがてその熱が引くころ、市原は小さく笑った。
「やっぱり、君はちゃんと俺のものだね」
智哉は視線を落としたまま答える言葉が出ない。
慌てて紙袋を受け取り、中を覗く。
淡いブルーのシャツと白いチノパンが、折り目正しく畳まれていた。
「これ、買ってきた。今日、これ着てくれる?」
智哉は一瞬言葉に詰まる。
「え、と……あの、でも……」
戸惑いを浮かべる智哉に、市原が口端へとキスを落とす。
「智哉の好みだと思うけど?それに」
市原は優しい笑みを浮かべ、その頬に指を滑らせた。
「凄く、似合うと思って」
その言葉から紡がれるのは、愛情のようでいながら、“所有”の温度。
智哉は紙袋を抱え、自室へと歩き出す。
鏡の前で着替えを終えた智哉は、自分の姿を見つめた。
シャツは少し緩く、パンツはきれいにシルエットを整えている。
それは――“市原が選んだ自分”だった。
(……結局、俺は“好きにする権利”なんて、持ってなかったかもしれない)
自分で選んだわけじゃない服なのに、手が止まらない。
胸の奥で、鋭い違和感と共に、不思議な安心が広がっていく。
静かに部屋を出ると、廊下に市原が立っていた。
髪を触り、まるでそこだけが“俺のもの”とでも言うように、腰に手を回す。
「似合ってる。ほんとに」
その手の温度と密着が、身体全体にじんわりと伝わってくる。
智哉は言葉にならない頷きを返し、ふたりで外へ出た。
※
近所の商店街では、小さな買い出しをする。
市原は一歩先を行き、智哉の歩幅を自分に合わせるように進んでいる。
すれ違う人々の視線は、二人を“カップル”として認識していた。
智哉の心がざわつく――これは、自分がここにいる証なのか。
手をつなごうとしないけれど、腰に触れた指の感触が絶えず胸にある。
(……この人の世界の中でしか、自分が存在してないみたいだ)
商品を手に取るたびに誰かが振り返る。
誰も智哉だけを見ていない。
だけど、腰に回された腕のぬくもりが、全てを掻き消していく。
買い出しを終え、レジを過ぎたところで、市原が穏やかに話しかける。
「買えたね。よかった」
智哉は小さく微笑みながら、買い物袋を抱え直した。
その視線の奥には、“自分”を必要とし、許可し、囲う視線があることに気づいていた。
胸の中に、ふと黒い影が揺らいだ。
安心と恐怖、愛情と所有。その微妙な温度の境を、智哉は今、確かに感じていた。