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第25話 温度に染まっていく

玄関の鍵が締まる音とほぼ同時に、市原はリビングに姿を現した。手には紙袋を下げていて、ポケットでスマホが微かに震えている。


「ただいま」


問いかけるように一言。返事の前に、市原はためらいもなく智哉に近づいた。そして──


唇が触れた。だけでは終わらない。

深く、身体ごと引き込まれるほどに、唇も舌も執拗に絡んできた。

逃げ場のない静寂の中、身体も思考も凍りつくようだった。

少しずつ、深い接触が増えてきていた。


やがてその熱が引くころ、市原は小さく笑った。


「やっぱり、君はちゃんと俺のものだね」


智哉は視線を落としたまま答える言葉が出ない。

慌てて紙袋を受け取り、中を覗く。


淡いブルーのシャツと白いチノパンが、折り目正しく畳まれていた。


「これ、買ってきた。今日、これ着てくれる?」


智哉は一瞬言葉に詰まる。


「え、と……あの、でも……」


戸惑いを浮かべる智哉に、市原が口端へとキスを落とす。


「智哉の好みだと思うけど?それに」


市原は優しい笑みを浮かべ、その頬に指を滑らせた。


「凄く、似合うと思って」


その言葉から紡がれるのは、愛情のようでいながら、“所有”の温度。

智哉は紙袋を抱え、自室へと歩き出す。



鏡の前で着替えを終えた智哉は、自分の姿を見つめた。

シャツは少し緩く、パンツはきれいにシルエットを整えている。

それは――“市原が選んだ自分”だった。


(……結局、俺は“好きにする権利”なんて、持ってなかったかもしれない)


自分で選んだわけじゃない服なのに、手が止まらない。

胸の奥で、鋭い違和感と共に、不思議な安心が広がっていく。


静かに部屋を出ると、廊下に市原が立っていた。

髪を触り、まるでそこだけが“俺のもの”とでも言うように、腰に手を回す。


「似合ってる。ほんとに」


その手の温度と密着が、身体全体にじんわりと伝わってくる。

智哉は言葉にならない頷きを返し、ふたりで外へ出た。



近所の商店街では、小さな買い出しをする。

市原は一歩先を行き、智哉の歩幅を自分に合わせるように進んでいる。

すれ違う人々の視線は、二人を“カップル”として認識していた。


智哉の心がざわつく――これは、自分がここにいる証なのか。

手をつなごうとしないけれど、腰に触れた指の感触が絶えず胸にある。


(……この人の世界の中でしか、自分が存在してないみたいだ)


商品を手に取るたびに誰かが振り返る。

誰も智哉だけを見ていない。

だけど、腰に回された腕のぬくもりが、全てを掻き消していく。


買い出しを終え、レジを過ぎたところで、市原が穏やかに話しかける。


「買えたね。よかった」


智哉は小さく微笑みながら、買い物袋を抱え直した。

その視線の奥には、“自分”を必要とし、許可し、囲う視線があることに気づいていた。


胸の中に、ふと黒い影が揺らいだ。

安心と恐怖、愛情と所有。その微妙な温度の境を、智哉は今、確かに感じていた。


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