ドライブへ向かう車内は静か。朝の光が窓越しに差し込み、街路樹が白く流れていく。
しばらくして着いたのは、交通量の少ない郊外の小さなカフェ。
ガラス張りで緑に囲まれたテラス席が特徴だ。
市原が「ほら、ここ」と促すように案内された席に腰掛けた。
予めオーダーが通っていたのか、淹れたてのコーヒーと手作りケーキが並ぶ。
「季節限定です」とウェイトレスが微笑んでテーブルを離れた。
智哉は一口食べると、その甘さに一瞬だけ肩の力が抜けた。
(これは……許される時間っていうのかな……)
だが、それも一瞬だった。
視線を外すと、人が行き交う店内で、自分だけが“異物”のように感じられて、胸がざわついた
(俺、おかしい気がする)
ゆるく息を吐き出して、水を取りに行く為に席を立つと、後ろから駆け寄った子連れの母親とぶつかりそうになった。
子どもの持っていたジュースが揺れて、一滴が智哉のシャツに飛んだ。
「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
母親は慌てて謝るが、智哉は反射的に「大丈夫です…」と答えた。
何でもない、ただの小さなアクシデント。
珍しいことでもない。
けれど、智哉にはその小さな“シミ”が引っかかる。
これは全て市原が智哉に整えたもので、大丈夫なんて、自分勝手にはとても思えなくて。
視線を上げると、市原がさりげなく微笑んでいて、そっとハンカチを差し出してくれた。
「……すみません、服……」
智哉はハンカチを受け取る。
「気にしないよ、それくらい」
やわらかな手のひらの温もりが、智哉を安堵に導く。
(……誰かに気を遣うって、こんなに疲れることだったんだ)
帰りの車内では会話もなく、市原が来た時と同じように車を動かす。少し経つと市原が切り出した。
「……さっき、何考えてた?」
「え……?」
急に聞かれて、智哉は戸惑う。
言葉を探す間もなく、赤信号で停止した車の中で市原が顔を寄せてきた。
「……何も考えてなかった?」
その声が触れるように近くて、次の瞬間──
唇が触れた。
けれど、もうそれは“触れるだけ”では終わらなかった。
押し込まれるように深く──口の中に入り込むようなキス。
息が詰まりそうになるほどの熱と圧。
逃れようとすればできたかもしれない。
でも、できなかった。
市原の舌が、自分のすべてを確かめるように這っていく感覚。
それは優しさじゃなかった。確認だった。掌握だった。
唇が離れるころには、視線すら逸らせなかった。
「……ちゃんと、俺のものでいて」
その声に、ただ、頷くしかできなかった。
マンションの前で車が停まると
「このあと、ちょっと外回りがあるから、先に帰っててくれる?」
「……はい」
彼の言葉に微笑んで頷くと、改めて執拗な安心が、檻のように胸を締め付けた。
家に戻ると、誰もいない。
テレビをつけても絵が画面を流れるだけ。
スマホを開いても、連絡先は削除済み、もしくは既読無視。
一度も返信が来ない相手たちの顔が浮かび、胸の奥から深い孤独が静かに這い上がってきた。
(……俺って、こんなに孤独だったっけ?)
壁の時計の秒針だけが、ひたひたと音を刻む。
時間がゆっくり流れ、重たく響いた。
ソファの上で膝を抱えて、ドアの方を意味もなく見ていた。
数十分後、スマホの通知音が鳴り、慌ててそれを智哉は手に取った。
見慣れた文字。
市原: 「もうすぐ帰るから、良い子で待ってるんだよ」
ふ、と小さな笑いが漏れて、その行動に自分で驚き目を見開く。
そして、その瞬間、気づく。
(……これが、依存なのかもしれない)
指先が震える。安心と恐怖がとめどなく交差していく。
(……俺、どうしてるんだろう)
胸が熱くなり、視界が霞む。
それは、誰にも言えない孤独と、誰も離れたくないという思い。
夕暮れの静寂だけが、自分の鼓動を聞いているようだった。