目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第24話 時計の針の音だけが

ドライブへ向かう車内は静か。朝の光が窓越しに差し込み、街路樹が白く流れていく。

しばらくして着いたのは、交通量の少ない郊外の小さなカフェ。

ガラス張りで緑に囲まれたテラス席が特徴だ。


市原が「ほら、ここ」と促すように案内された席に腰掛けた。

予めオーダーが通っていたのか、淹れたてのコーヒーと手作りケーキが並ぶ。

「季節限定です」とウェイトレスが微笑んでテーブルを離れた。

智哉は一口食べると、その甘さに一瞬だけ肩の力が抜けた。


(これは……許される時間っていうのかな……)


だが、それも一瞬だった。

視線を外すと、人が行き交う店内で、自分だけが“異物”のように感じられて、胸がざわついた


(俺、おかしい気がする)


ゆるく息を吐き出して、水を取りに行く為に席を立つと、後ろから駆け寄った子連れの母親とぶつかりそうになった。

子どもの持っていたジュースが揺れて、一滴が智哉のシャツに飛んだ。


「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」


母親は慌てて謝るが、智哉は反射的に「大丈夫です…」と答えた。

何でもない、ただの小さなアクシデント。

珍しいことでもない。

けれど、智哉にはその小さな“シミ”が引っかかる。

これは全て市原が智哉に整えたもので、大丈夫なんて、自分勝手にはとても思えなくて。

視線を上げると、市原がさりげなく微笑んでいて、そっとハンカチを差し出してくれた。


「……すみません、服……」


智哉はハンカチを受け取る。


「気にしないよ、それくらい」


やわらかな手のひらの温もりが、智哉を安堵に導く。


(……誰かに気を遣うって、こんなに疲れることだったんだ)


帰りの車内では会話もなく、市原が来た時と同じように車を動かす。少し経つと市原が切り出した。


「……さっき、何考えてた?」

「え……?」


急に聞かれて、智哉は戸惑う。

言葉を探す間もなく、赤信号で停止した車の中で市原が顔を寄せてきた。


「……何も考えてなかった?」


その声が触れるように近くて、次の瞬間──


唇が触れた。

けれど、もうそれは“触れるだけ”では終わらなかった。


押し込まれるように深く──口の中に入り込むようなキス。


息が詰まりそうになるほどの熱と圧。

逃れようとすればできたかもしれない。

でも、できなかった。

市原の舌が、自分のすべてを確かめるように這っていく感覚。

それは優しさじゃなかった。確認だった。掌握だった。

唇が離れるころには、視線すら逸らせなかった。


「……ちゃんと、俺のものでいて」


その声に、ただ、頷くしかできなかった。

マンションの前で車が停まると


「このあと、ちょっと外回りがあるから、先に帰っててくれる?」

「……はい」


彼の言葉に微笑んで頷くと、改めて執拗な安心が、檻のように胸を締め付けた。


家に戻ると、誰もいない。

テレビをつけても絵が画面を流れるだけ。

スマホを開いても、連絡先は削除済み、もしくは既読無視。

一度も返信が来ない相手たちの顔が浮かび、胸の奥から深い孤独が静かに這い上がってきた。


(……俺って、こんなに孤独だったっけ?)


壁の時計の秒針だけが、ひたひたと音を刻む。

時間がゆっくり流れ、重たく響いた。

ソファの上で膝を抱えて、ドアの方を意味もなく見ていた。


数十分後、スマホの通知音が鳴り、慌ててそれを智哉は手に取った。

見慣れた文字。


市原: 「もうすぐ帰るから、良い子で待ってるんだよ」


ふ、と小さな笑いが漏れて、その行動に自分で驚き目を見開く。

そして、その瞬間、気づく。


(……これが、依存なのかもしれない)


指先が震える。安心と恐怖がとめどなく交差していく。


(……俺、どうしてるんだろう)


胸が熱くなり、視界が霞む。

それは、誰にも言えない孤独と、誰も離れたくないという思い。

夕暮れの静寂だけが、自分の鼓動を聞いているようだった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?