目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第33話 外の誘い

東條からのメッセージは、昼過ぎ、ふいに届いた。


“よかったら、お茶でもどう?少し、話をしようよ”


画面を見つめたまま、智哉はしばらく動けなかった。

東條に番号を教えた記憶はない。

どうやって、と思う。

返信を打とうとしては消し、何度か書きかけた文を削除する。


(……市原さんは、きっと何にも教えてくれない……)


先日のやりとりを思い出す。

線引きが明確にされた、あの日。

智哉は端末を強く握りしめた。


(知りたければ、自分で聞くしかない……この人に)


そう決めて、「いいですよ」とだけ短く返した。



指定されたのは、駅から少し離れた裏通りの静かなカフェだった。

普段なら気づかず通り過ぎてしまいそうな古い扉を押すと、東條はすでに席についていた。

黒のジャケットに、艶のないシャツには模様が入っていた。

相変わらず、見慣れないバランスの服が似合っている。


「来てくれて嬉しいよ。ここのケーキ、すごく美味しいんだって」


そう言って笑う横顔は、思いのほか自然だった。

注文を終えると、東條はゆったりと背もたれに身体を預ける。


「市原には言ってきた?」

「……いえ、あの……」


智哉が口籠ると、それで察した東條は小さく笑う。


「黙ってきちゃったか。まあ、たまには息抜きも必要だしね。しかし、変わらないね。市原も」

「……変わらない?」


智哉はその言葉に、首を傾げた。


「昔からああいうとこあるからね。自分のことは語らないくせに、人の全部を抱え込もうとする。君、疲れない?」


その質問に、智哉は答えられなかった。

疲れていないと言えば嘘になる。

でも、それを言葉にすれば何かが崩れてしまいそうで。


「まあ、無理に話す必要はないよ」


東條は、まるで会話の温度を測るように、スプーンでグラスの水を軽く回す。


「君、“見られる側”に慣れてないよね。すごく無防備。見透かされるの、苦手?」

「……慣れてないだけです」

「そう。じゃあ、慣れたら強くなる?」


少し挑むようなその視線に、智哉は目をそらした。


「君、賢い子だと思うよ。言葉は選ぶし、相手も見てる。でも、それだけじゃ足りないってことも、もうわかってるよね」


智哉の胸が、きゅっと締めつけられた。


「……なんでそんなこと、わかるんですか」

「簡単だよ。俺も昔、そうだったから」


東條の言葉は淡々としていたが、その瞳はどこか遠くのものを見ていた。


「ねえ、智哉くん」


名前を呼ばれて、智哉は小さく肩を揺らす。


「君は、どこまで“市原のもの”でいるつもりなの?」


それは、踏み込みすぎた言葉だった。

けれど、東條は静かに微笑んでいた。


「――誰のものでもない自分でいたいって、思ったことない?」


その言葉に、智哉は胸の奥を突かれる。


(……思ったこと、あった。けど)


「……わかりません」


答えは、それだけだった。

東條はそれ以上は何も言わず、伝票を取り、席を立った。


「ああ、時間だ。ごめんね、出てきてくれたのに。今日はこのへんで。……また、会える?」


問いというより、確認のような声だった。

智哉は何も答えなかった。ただ、その場に立ち尽くす。


店を出る直前、東條の手がふいに近づいた。


「髪、綺麗だよねぇ」


指先が、そっと前髪に触れた。

智哉は反射的に肩をすくめたが、手を払うことはできなかった。


(あ……)


気づいたときには、もう遅かった。

その一瞬の“許し”が、東條を笑みに変えていた。


「……また連絡するよ、智哉くん」


東條はそのまま、静かに路地の奥へと歩いていった。


智哉は動けなかった。

髪に触れられた感触が、妙に生々しく残っている。

拒まなかった自分がいたことに、胸の奥がざわめく。


(……なんで、拒めなかったんだろう)


市原には言えないことが、今この手の中に、またひとつ増えた気がした。

そしてそれは、思っていた以上に、自分の中で重たかった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?