東條からのメッセージは、昼過ぎ、ふいに届いた。
“よかったら、お茶でもどう?少し、話をしようよ”
画面を見つめたまま、智哉はしばらく動けなかった。
東條に番号を教えた記憶はない。
どうやって、と思う。
返信を打とうとしては消し、何度か書きかけた文を削除する。
(……市原さんは、きっと何にも教えてくれない……)
先日のやりとりを思い出す。
線引きが明確にされた、あの日。
智哉は端末を強く握りしめた。
(知りたければ、自分で聞くしかない……この人に)
そう決めて、「いいですよ」とだけ短く返した。
※
指定されたのは、駅から少し離れた裏通りの静かなカフェだった。
普段なら気づかず通り過ぎてしまいそうな古い扉を押すと、東條はすでに席についていた。
黒のジャケットに、艶のないシャツには模様が入っていた。
相変わらず、見慣れないバランスの服が似合っている。
「来てくれて嬉しいよ。ここのケーキ、すごく美味しいんだって」
そう言って笑う横顔は、思いのほか自然だった。
注文を終えると、東條はゆったりと背もたれに身体を預ける。
「市原には言ってきた?」
「……いえ、あの……」
智哉が口籠ると、それで察した東條は小さく笑う。
「黙ってきちゃったか。まあ、たまには息抜きも必要だしね。しかし、変わらないね。市原も」
「……変わらない?」
智哉はその言葉に、首を傾げた。
「昔からああいうとこあるからね。自分のことは語らないくせに、人の全部を抱え込もうとする。君、疲れない?」
その質問に、智哉は答えられなかった。
疲れていないと言えば嘘になる。
でも、それを言葉にすれば何かが崩れてしまいそうで。
「まあ、無理に話す必要はないよ」
東條は、まるで会話の温度を測るように、スプーンでグラスの水を軽く回す。
「君、“見られる側”に慣れてないよね。すごく無防備。見透かされるの、苦手?」
「……慣れてないだけです」
「そう。じゃあ、慣れたら強くなる?」
少し挑むようなその視線に、智哉は目をそらした。
「君、賢い子だと思うよ。言葉は選ぶし、相手も見てる。でも、それだけじゃ足りないってことも、もうわかってるよね」
智哉の胸が、きゅっと締めつけられた。
「……なんでそんなこと、わかるんですか」
「簡単だよ。俺も昔、そうだったから」
東條の言葉は淡々としていたが、その瞳はどこか遠くのものを見ていた。
「ねえ、智哉くん」
名前を呼ばれて、智哉は小さく肩を揺らす。
「君は、どこまで“市原のもの”でいるつもりなの?」
それは、踏み込みすぎた言葉だった。
けれど、東條は静かに微笑んでいた。
「――誰のものでもない自分でいたいって、思ったことない?」
その言葉に、智哉は胸の奥を突かれる。
(……思ったこと、あった。けど)
「……わかりません」
答えは、それだけだった。
東條はそれ以上は何も言わず、伝票を取り、席を立った。
「ああ、時間だ。ごめんね、出てきてくれたのに。今日はこのへんで。……また、会える?」
問いというより、確認のような声だった。
智哉は何も答えなかった。ただ、その場に立ち尽くす。
店を出る直前、東條の手がふいに近づいた。
「髪、綺麗だよねぇ」
指先が、そっと前髪に触れた。
智哉は反射的に肩をすくめたが、手を払うことはできなかった。
(あ……)
気づいたときには、もう遅かった。
その一瞬の“許し”が、東條を笑みに変えていた。
「……また連絡するよ、智哉くん」
東條はそのまま、静かに路地の奥へと歩いていった。
智哉は動けなかった。
髪に触れられた感触が、妙に生々しく残っている。
拒まなかった自分がいたことに、胸の奥がざわめく。
(……なんで、拒めなかったんだろう)
市原には言えないことが、今この手の中に、またひとつ増えた気がした。
そしてそれは、思っていた以上に、自分の中で重たかった。