夜、リビングは静まり返っていた。カーテンの隙間から差す街灯の明かりが、ソファの影をうっすらと照らす。
智哉は俯いたまま、指先に力が入っていた。
髪に触れた、東條の手。
軽いものだった。
けれど、拒まなかった自分がいた。
それを思い返すたび、胸の奥がざわめく。
リビングへとキッチンから水の入ったグラスを手にした市原が戻ってきた。
「――今日、東條と会ってたんだろ?」
声は落ち着いていた。
でも、その静けさの奥にあるものは、智哉にはもうわかっていた。
「……なんで、わかったんですか」
市原はソファの脇にグラスを置き、言う。
「服に香りがついてた。あの店、焙煎が強いから。……あいつの指定か。変わらないね、あいつも」
その一言が、どこかに刺さる。
智哉は目を伏せた。
「……市原さん、怒らないんですか?」
「怒ってるよ」
その言葉に、顔を上げる。
「俺の知らないところで君が誰かと会って、俺には話さない。怒るに決まってる」
市原はゆっくりと腰を下ろし、智哉の正面に向き直る。
「……しかも、東條に、髪を触られたって?」
その一言に、智哉の背筋がびくりと跳ねた。
唇を噛んだまま、返事ができない。
(――なんで、そんなことまで)
あのときの空気。誰にも見られていないと思っていた一瞬が、まるで見透かされていたかのように、今ここで暴かれている。
胸の奥で、冷たいものが静かに広がっていく。
市原はその沈黙を確かめるように、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「君が、そういうとき黙る癖があるの、俺は知ってる」
低く、けれど刺すような声音だった。
それは感情を押し殺したようでいて、怒りよりももっと深い場所から届いていた。
「……俺に黙って、会ってた……までは、まあ、まだ許せる。……髪に触れさせるくらいには、あいつに気を許したってこと?」
「……違……」
言い訳にもならない反射的な声。
だが、言い切る前に、市原の手が智哉の肩を掴んで引き寄せた。
「違うなら、なぜ拒まなかった?前も、そう言ったよね?」
その声は、もう静かではなかった。
吐息が肌にかかるほどの距離で、智哉の首筋に顔が寄せられる。
「……智哉はいい子なのに、できないことがある。だから、これはお仕置きだよ」
言葉と同時に、智哉の首筋に、硬く熱い痛みが走った。
甘噛みではない。
本気で痕を残すつもりで歯を食い込ませているのが、わかる。
味わったことのない痛みに、智哉は思わず声を飲み込んだ。
「……っく、っ……」
涙が滲みそうになるのを堪える。
それでも、抵抗はできなかった。
唇が離れた瞬間、じんとした痛みが残る。
市原は、その痕を親指で押さえながら、低く囁いた。
「君が誰と会おうと、何を話そうと、俺は縛るつもりはない」
それは自由を与える言葉だった。
けれど、噛まれた場所がずきりと疼いて、その“自由”がどれほど恐ろしいかを思い知る。
「でもね、智哉」
視線が絡む。淡々としたその表情が、凍るように冷たかった。
「君の視線も、声も、微笑み一つも――俺のものなんだ」
ゆっくりと告げられたその言葉に、智哉は息を飲んだ。
「……それだけは、忘れないで」
首を傾げた市原に智哉は目を伏せて、頷く。
いい子だね、と市原の声が耳を掠った。
(でも、市原さんは──……俺に教えてくれない、くせに……)
そんなことを思ってしまう自分に、また胸がちくりと痛んだ。