朝、目を覚ましたとき、市原はもうリビングにいた。
カーテンの隙間から射す陽光が、彼の肩に落ちる。
書類を広げ、タブレットを見つめながら、コーヒーを口にしていた。
その姿は、いつもと何も変わらないように見える。
けれど智哉は、ふと違和感を覚えた。
(……なんで、こんなに静かなんだろう)
その違和感が正しいと気づいたのは、リビングに顔を出した瞬間だった。
「おはよう、智哉」
市原は、ふっと柔らかく笑った。
それも、いつも通りの声で。
でも、その“いつも”が、どこか表面だけのように感じられる。
朝食も、服の選び方も、玄関での「行ってきます」も。
全部丁寧で、優しかった。
けれど、そこには、まるでマニュアルをなぞるような違和感があった。
(……こんなふうに、優しかったっけ)
それが本当に怖かった。
昨夜、噛まれた痕は、まだひりつくように残っている。
指先でそっと撫でてみても、市原は何も言わなかった。
「今日、仕事早く終わるかもしれない。夕飯、食べに出ようか?」
昼過ぎ、メッセージが届いたときも、それはごく普通の内容だった。
絵文字も、無理な詮索もない。
(いつもと、同じ……)
怒ってると言った。
だから、智哉の首筋に痕を残した。
そして最近一緒だった寝室も昨日は別だった。
(なのに、なぜ優しい……)
問い詰めようにも、智哉の口は動かなかった。
夜になってもそれは、1ミリたりとも変わらなかった。
だからこそ、拭いきれないどろりとした違和感が智也から抜けていかなかった。
(……この人、何を考えてるんだろう)
食事から帰り、並んでテレビを観て、日常の会話を交わす。
いつも通りの時間のはずなのに、どこかが噛み合わない。
「髪、乾かした?」
そう訊かれて、「はい」と答える。
市原は頷いて、自分のカップにコーヒーを注ぎ足した。
その背中を見つめながら、智哉はぽつりとこぼした。
「市原さん、まだ怒って……ますか?」
市原は、手を止めなかった。
けれど、ほんの一瞬だけ間があった。
「……どうして?」
「……なんか、優しすぎて」
市原は、笑った。
けれどその笑みも、やっぱりどこか遠い。
「面白いことを言うね、智哉は。怒ったら優しくしないよ。それに俺は……いつも通りだよ」
智哉は押し黙る。
――いつも通り。それが、逆に怖い。
昨夜、噛まれたときの温度。
「俺のものだ」と言った声の、冷たさ。
そこには、確かに感情があった。
でも、今日の市原には、それがまったく感じられない。
(……演じてるのかもしれない)
そう思った瞬間、心の奥に冷たいものが差し込んだ。
“自分は試されてる”
“見られている”
そんな感覚が抜けない。
市原の笑顔が、まるでガラス越しに見ているように感じる。
智哉は、コップの中の水を見つめた。
そこに映る自分の顔も、どこか他人のようだった。
あのとき、東條を咄嗟に拒まなかったこと。
市原に黙っていたこと。
始めてしまったのは自分だ。
でも、理由はある。けれど──。
“対等じゃない”ということを、嫌というほど思い知らされた。
「……市原さんは」
声を出した瞬間、手が震えた。
「……俺に、隠してること……ありますか?」
その質問に、市原は少しだけ眉を寄せた。
「なんで、そう思うの?」
「なんと、なく……」
智哉は言葉を飲み込んだ。
それが、何かを壊してしまいそうで。
市原は黙ったまま、ゆっくりと手の中のカップを置いた。
「……もし、俺が何かを隠しているとしても」
視線がぶつかる。
「それは、君を傷つけないため、だとしたら?」
言葉は、優しい響きだった。
けれど、答えではなかった。
(それって……嘘をつく理由として、正しいんですか)
心の中に、小さな波紋が広がっていく。
智哉はうなずくこともできず、そのまま目を伏せた。
ソファの上、静かな時間が流れる。
でもその静寂の中で、智哉の中には確かに芽生えていた。
――この人は、何かを隠している。
そして、それが何なのかを、自分はまだ知らない。
まるで水面に落ちた影のように、静かに、けれど確かに、その疑念は心の奥に沈んでいった。