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第35話 水面の影

朝、目を覚ましたとき、市原はもうリビングにいた。


カーテンの隙間から射す陽光が、彼の肩に落ちる。

書類を広げ、タブレットを見つめながら、コーヒーを口にしていた。


その姿は、いつもと何も変わらないように見える。

けれど智哉は、ふと違和感を覚えた。


(……なんで、こんなに静かなんだろう)


その違和感が正しいと気づいたのは、リビングに顔を出した瞬間だった。


「おはよう、智哉」


市原は、ふっと柔らかく笑った。

それも、いつも通りの声で。


でも、その“いつも”が、どこか表面だけのように感じられる。


朝食も、服の選び方も、玄関での「行ってきます」も。

全部丁寧で、優しかった。

けれど、そこには、まるでマニュアルをなぞるような違和感があった。


(……こんなふうに、優しかったっけ)


それが本当に怖かった。


昨夜、噛まれた痕は、まだひりつくように残っている。

指先でそっと撫でてみても、市原は何も言わなかった。


「今日、仕事早く終わるかもしれない。夕飯、食べに出ようか?」


昼過ぎ、メッセージが届いたときも、それはごく普通の内容だった。

絵文字も、無理な詮索もない。


(いつもと、同じ……)


怒ってると言った。

だから、智哉の首筋に痕を残した。

そして最近一緒だった寝室も昨日は別だった。


(なのに、なぜ優しい……)


問い詰めようにも、智哉の口は動かなかった。


夜になってもそれは、1ミリたりとも変わらなかった。

だからこそ、拭いきれないどろりとした違和感が智也から抜けていかなかった。


(……この人、何を考えてるんだろう)


食事から帰り、並んでテレビを観て、日常の会話を交わす。

いつも通りの時間のはずなのに、どこかが噛み合わない。


「髪、乾かした?」


そう訊かれて、「はい」と答える。

市原は頷いて、自分のカップにコーヒーを注ぎ足した。

その背中を見つめながら、智哉はぽつりとこぼした。


「市原さん、まだ怒って……ますか?」


市原は、手を止めなかった。

けれど、ほんの一瞬だけ間があった。


「……どうして?」

「……なんか、優しすぎて」


市原は、笑った。

けれどその笑みも、やっぱりどこか遠い。


「面白いことを言うね、智哉は。怒ったら優しくしないよ。それに俺は……いつも通りだよ」


智哉は押し黙る。


――いつも通り。それが、逆に怖い。


昨夜、噛まれたときの温度。

「俺のものだ」と言った声の、冷たさ。

そこには、確かに感情があった。


でも、今日の市原には、それがまったく感じられない。


(……演じてるのかもしれない)


そう思った瞬間、心の奥に冷たいものが差し込んだ。


“自分は試されてる”

“見られている”


そんな感覚が抜けない。


市原の笑顔が、まるでガラス越しに見ているように感じる。

智哉は、コップの中の水を見つめた。

そこに映る自分の顔も、どこか他人のようだった。


あのとき、東條を咄嗟に拒まなかったこと。

市原に黙っていたこと。


始めてしまったのは自分だ。

でも、理由はある。けれど──。


“対等じゃない”ということを、嫌というほど思い知らされた。


「……市原さんは」


声を出した瞬間、手が震えた。


「……俺に、隠してること……ありますか?」


その質問に、市原は少しだけ眉を寄せた。


「なんで、そう思うの?」

「なんと、なく……」


智哉は言葉を飲み込んだ。

それが、何かを壊してしまいそうで。


市原は黙ったまま、ゆっくりと手の中のカップを置いた。


「……もし、俺が何かを隠しているとしても」


視線がぶつかる。


「それは、君を傷つけないため、だとしたら?」


言葉は、優しい響きだった。

けれど、答えではなかった。


(それって……嘘をつく理由として、正しいんですか)


心の中に、小さな波紋が広がっていく。


智哉はうなずくこともできず、そのまま目を伏せた。

ソファの上、静かな時間が流れる。

でもその静寂の中で、智哉の中には確かに芽生えていた。


――この人は、何かを隠している。


そして、それが何なのかを、自分はまだ知らない。

まるで水面に落ちた影のように、静かに、けれど確かに、その疑念は心の奥に沈んでいった。


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