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第36話 やさしい嘘

それは、偶然だった。


いつものように事務所のフロアに顔を出したとき、ガラス越しに見えた横顔に、智哉は立ち止まった。


──東條。


薄いグレーのシャツに、柔らかそうなスラックス。

資料を片手にスタッフと軽く笑い合っていた。

この空間に自然に馴染んでいて、違和感のない存在。


東條という男が、どういう人間なのか智哉に正しくわかっているわけではない。

ただこれ以上は関わらない方がいい人間──そう判断し、気づかれないよう背を向けようとしたそのとき、視線が合った。

軽く手を挙げて近づいてくる。

逃げるには遅すぎた。


「やあ。奇遇だね、智哉くん」

「……お疲れさまです」


挨拶だけで切り上げようとしたが、東條がそれを許さないとばかりに、少し顎を傾けて訊いてきた。


「調子はどう?……あれから、何か変わった?」


その一言に、胸がざわめいた。

“あれから”という言葉の意味を、東條はよくわかっている。

智哉は、やはり関わったら駄目なんだ、と思いながら首を振る。


「特に、は。何も、変わらないです……」

「そか。それは……良かった」


少しの沈黙。

東條が視線を落とすようにして続けた。


「市原ってさ、昔、付き合ってた人がいてね」


――突き刺さるような言葉だった。


「その人のこと、俺もよく知ってた。まあ、同じサークルだったから。……すごく、大人しくて、でもちょっと不安定でさ」

「……今、どうしてそんな話を」

「まあ、そう意味はないよ。ただ、言っておこうと思って。……市原、あれでも、ちゃんと傷つくんだよ」


そこまで言うと、小さく笑って東條は首を傾げる。


「君と違って、あいつは――誰にも頼らないから」


まるで遠回しに何かを告げるような口調だった。

智哉は言葉を探したが、何一つ返せなかった。


「じゃあね」


東條はそれ以上何も言わず、フロアの奥へと歩いていった。


(……昔、付き合ってた人……)


自分の知らない市原。

そこにいた誰か。

東條の言葉がずっと耳に残っていた。



その夜。

夕食後、キッチンでお茶を淹れる市原の横で、智哉は洗い物を濯ぎながら口を開いた。


「……市原さん。昔、誰かと付き合ってたこと、ありますか?」


手が、ぴたりと止まる。

その沈黙がすでに、答えのようだった。


やがて、静かに智哉の方へと顔を向ける。

声は出さず、ただ一度、まっすぐに目を見る。

そこに浮かんでいたのは、怒りでも、困惑でもなかった――ただ、触れるな、と言っているようだった。


「……なんで急にそんなこと訊くの?」


市原は手元へ視線を戻しながら、そう言った。


「……事務所で、東條さんと会ったんです。少しだけ話して……」


それ以上は、うまく言えなかった。

この時点で、智哉にも今の質問が悪手だったことが窺い知れる。

市原はしばらく黙っていたが、ゆっくりと手を動かしながら言った。


「それが君と何の関係がある?」


その声は静かだったが、明らかに拒絶の色があった。


(ああ、そうか……これも……)


感じ取ってしまったからこそ、智哉は続けてしまった。


「……ない、かもしれません。でも、知りたいって思うのは、いけないことですか」


自分でも驚くほど真っ直ぐな声を出していた。


市原は智哉の方を見ない。。

ただ、声だけが返ってきた。


「……関係ないことには、触れない方がいい」


優しさに包んだ拒絶。

それが一番、息苦しかった。


「……俺、何も知らないままでいないと駄目ですか……?」


その問いには、もう答えはなかった。


その後。

ソファで並んで座っていた。

市原の手に導かれるまま、智哉は身体ごと市原の肩に寄りかかっている。

テレビから流れる音だけが、部屋に響いていた。


けれど、智哉の意識は上の空だった。

今触れているこの体温の裏に、どれだけの感情が隠されているのか。

それが、よく分からなくなって、恐ろしかった。


(……俺、おかしくなってる気がする……)


“触れちゃいけない”とされたことで、逆にどうしても知りたくなっている。

その感情が、じわじわと心を侵食していく。

恐らく、智哉のこういう心の動きも東條は把握しているのだ。

そう知った上で、あの話を出してきている気がした。


市原の手が、静かに智哉の指先に触れた。

握られる。

でも、温かさの奥にあるものが、どうしても見えない。


この人は、何を守って、何を壊したくないのか。


そして――

どこまで本当に、自分を「見て」くれているのか。


目を閉じる。

けれど、頭の中はぐるぐると回っていて落ち着かない。

水面の影は、じわじわと深く、智哉の胸に広がっていた。


そしてふと、思ってしまう。

――またひとつ、市原との距離が開いた気がした。


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