それは、偶然だった。
いつものように事務所のフロアに顔を出したとき、ガラス越しに見えた横顔に、智哉は立ち止まった。
──東條。
薄いグレーのシャツに、柔らかそうなスラックス。
資料を片手にスタッフと軽く笑い合っていた。
この空間に自然に馴染んでいて、違和感のない存在。
東條という男が、どういう人間なのか智哉に正しくわかっているわけではない。
ただこれ以上は関わらない方がいい人間──そう判断し、気づかれないよう背を向けようとしたそのとき、視線が合った。
軽く手を挙げて近づいてくる。
逃げるには遅すぎた。
「やあ。奇遇だね、智哉くん」
「……お疲れさまです」
挨拶だけで切り上げようとしたが、東條がそれを許さないとばかりに、少し顎を傾けて訊いてきた。
「調子はどう?……あれから、何か変わった?」
その一言に、胸がざわめいた。
“あれから”という言葉の意味を、東條はよくわかっている。
智哉は、やはり関わったら駄目なんだ、と思いながら首を振る。
「特に、は。何も、変わらないです……」
「そか。それは……良かった」
少しの沈黙。
東條が視線を落とすようにして続けた。
「市原ってさ、昔、付き合ってた人がいてね」
――突き刺さるような言葉だった。
「その人のこと、俺もよく知ってた。まあ、同じサークルだったから。……すごく、大人しくて、でもちょっと不安定でさ」
「……今、どうしてそんな話を」
「まあ、そう意味はないよ。ただ、言っておこうと思って。……市原、あれでも、ちゃんと傷つくんだよ」
そこまで言うと、小さく笑って東條は首を傾げる。
「君と違って、あいつは――誰にも頼らないから」
まるで遠回しに何かを告げるような口調だった。
智哉は言葉を探したが、何一つ返せなかった。
「じゃあね」
東條はそれ以上何も言わず、フロアの奥へと歩いていった。
(……昔、付き合ってた人……)
自分の知らない市原。
そこにいた誰か。
東條の言葉がずっと耳に残っていた。
※
その夜。
夕食後、キッチンでお茶を淹れる市原の横で、智哉は洗い物を濯ぎながら口を開いた。
「……市原さん。昔、誰かと付き合ってたこと、ありますか?」
手が、ぴたりと止まる。
その沈黙がすでに、答えのようだった。
やがて、静かに智哉の方へと顔を向ける。
声は出さず、ただ一度、まっすぐに目を見る。
そこに浮かんでいたのは、怒りでも、困惑でもなかった――ただ、触れるな、と言っているようだった。
「……なんで急にそんなこと訊くの?」
市原は手元へ視線を戻しながら、そう言った。
「……事務所で、東條さんと会ったんです。少しだけ話して……」
それ以上は、うまく言えなかった。
この時点で、智哉にも今の質問が悪手だったことが窺い知れる。
市原はしばらく黙っていたが、ゆっくりと手を動かしながら言った。
「それが君と何の関係がある?」
その声は静かだったが、明らかに拒絶の色があった。
(ああ、そうか……これも……)
感じ取ってしまったからこそ、智哉は続けてしまった。
「……ない、かもしれません。でも、知りたいって思うのは、いけないことですか」
自分でも驚くほど真っ直ぐな声を出していた。
市原は智哉の方を見ない。。
ただ、声だけが返ってきた。
「……関係ないことには、触れない方がいい」
優しさに包んだ拒絶。
それが一番、息苦しかった。
「……俺、何も知らないままでいないと駄目ですか……?」
その問いには、もう答えはなかった。
その後。
ソファで並んで座っていた。
市原の手に導かれるまま、智哉は身体ごと市原の肩に寄りかかっている。
テレビから流れる音だけが、部屋に響いていた。
けれど、智哉の意識は上の空だった。
今触れているこの体温の裏に、どれだけの感情が隠されているのか。
それが、よく分からなくなって、恐ろしかった。
(……俺、おかしくなってる気がする……)
“触れちゃいけない”とされたことで、逆にどうしても知りたくなっている。
その感情が、じわじわと心を侵食していく。
恐らく、智哉のこういう心の動きも東條は把握しているのだ。
そう知った上で、あの話を出してきている気がした。
市原の手が、静かに智哉の指先に触れた。
握られる。
でも、温かさの奥にあるものが、どうしても見えない。
この人は、何を守って、何を壊したくないのか。
そして――
どこまで本当に、自分を「見て」くれているのか。
目を閉じる。
けれど、頭の中はぐるぐると回っていて落ち着かない。
水面の影は、じわじわと深く、智哉の胸に広がっていた。
そしてふと、思ってしまう。
――またひとつ、市原との距離が開いた気がした。