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第38話 境界を壊して

「……うち、来る?」


東條のその一言は、まるで雑談の延長のように投げかけられた。


駅前の喫茶店、午後の空いた時間。

偶然にしては出来すぎていた。けれど智哉は、何も言えなかった。

東條の目は笑っていて、でも芯の部分がどこか冷たく見えた。


「……うち?」

「うん。夕飯、まだでしょ?」


東條の言葉はさらっとしていて、まるで“選択肢のひとつ”を提示しているだけのようだった。

けれど、それを断ることが、妙に難しく感じられた。


(どうして、今、こんな話を)


断ればいい。それだけのはずだった。

けれど、声が出なかった。


「……あ、無理ならいいんだけど」


そう言いながら、東條は財布をポケットにしまった。

その仕草すら計算されているように思える。


智哉は、ふと頭の中で“帰宅”という単語を浮かべた。

そこには市原がいる。


けれど──彼の目も、声も、最近は“遠い”。

近くにいるのに、何も届いてこないあの感じが、ふと胸に重くのしかかった。


「……行きます」


言ってから、少しだけ後悔した。

でももう、東條は立ち上がっていた。



東條の部屋は、思っていたよりも普通だった。

市原の自宅同様で別区画にあるタワマンではあったが、豪奢さよりは機能性が強く出たマンションだった。

玄関からリビングまで、無駄に飾られているものはない。

けれど清潔で、過剰ではない香りの残る空間。


「そこ、座ってて。飲み物、何がいい?」

「……水で、いいです」


答えたあと、ふと視線を泳がせる。

東條はキッチンに立ったまま、少しだけ笑っていた。


グラスを受け取って、一口飲む。

緊張で、唇がひどく乾いていた。


(……何してるんだろ、俺)


部屋に来て、何がしたかったのか。

自分の中にある“答え”が、曖昧すぎて気持ち悪い。


「……市原さ」


唐突に、その名前が出た。


「たぶん、君のこと、離さないよ」


智哉は反応できなかった。


「俺がちょっかい出してるのも把握してるんだろうな、あいつ。でも、“離さない”ってことはさ、裏を返せば――“逃げられる”ってことでもあるんだよね」


東條の言葉は、どこまでも軽やかだった。

けれど、それが一番、智哉の神経を逆撫でした。


「……なんで、そんなこと……」


絞り出すような声に、東條は首を傾げて笑う。


「いや、ごめん。ただ言ってみたくなっただけ。……で、ほんとに来ると思わなかったな、智哉くんが」


その言葉に、動きが止まる。


「……え?」

「うん。来るかどうか、試しただけだよ」


その一言が、頭の奥に響いた。

カン、と音を立てて、何かが割れたような気がした。


「……試した?」

「そう。“市原の子”が、どのくらい自立してるのかなーって」


東條は笑っていた。

まるで、“人”じゃなくて“構造”を見ているかのような目だった。


智哉の中で、急に何かが冷めた。

結局、自分の妄想だったことが思い知らされた気がした。

“智哉”を見てくれていると言う、妄想。


「……最低ですね」


小さな声だった。

でも、自分でも驚くくらい静かな怒りがそこにはあった。

ただこの怒りは、全部を東條に向けたものではない。

むしろ、簡単に騙されてしまう自分に向けたものだった。


「……ごめん。でも、君も来たでしょ?」


東條の声は変わらない。

その事実が、何よりも自分の浅ましさを突きつけてくる。


「来たってことは、揺れてるってことでしょ? それは悪いことじゃない」

「……でも、利用することは、違う」


その言葉に、東條は一瞬だけ表情を止めた。

でもすぐに、肩をすくめて笑った。


「そっか。じゃ、もう帰る?」


智哉は立ち上がった。

喉の奥が焼けつくようだった。

ドアに手をかけた瞬間、東條がふと言った。


「でも気づいたでしょ? 自分がどれだけ、市原に依存させられてるか」


振り返らなかった。

ただ、その言葉だけが、背中にずっと残っていた。



夜、部屋に戻ったとき、市原はまだリビングにいた。


「遅かったね」


その声は、柔らかかった。

でも、智哉にはその優しさが、いっそう遠く感じられた。


靴を脱ぎ、リビングに足を踏み入れながら、ふと思ってしまう。


(俺は、どこまでいけば“自分”になれるんだろう)


東條の部屋のドアの前で、ほんの一瞬、境界を超えかけた。

それが“試されただけ”だったとしても、自分の意思で踏み出した一歩だった。


――そして、そのあとに襲ってくる自己嫌悪も、全部、自分のものだった。


智哉はソファに腰を下ろし、市原の横顔を窺い見つめた。


(この人に、見られている)


そう思いながら、それでもその視線が、今夜だけはやけに痛かった。

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