「……うち、来る?」
東條のその一言は、まるで雑談の延長のように投げかけられた。
駅前の喫茶店、午後の空いた時間。
偶然にしては出来すぎていた。けれど智哉は、何も言えなかった。
東條の目は笑っていて、でも芯の部分がどこか冷たく見えた。
「……うち?」
「うん。夕飯、まだでしょ?」
東條の言葉はさらっとしていて、まるで“選択肢のひとつ”を提示しているだけのようだった。
けれど、それを断ることが、妙に難しく感じられた。
(どうして、今、こんな話を)
断ればいい。それだけのはずだった。
けれど、声が出なかった。
「……あ、無理ならいいんだけど」
そう言いながら、東條は財布をポケットにしまった。
その仕草すら計算されているように思える。
智哉は、ふと頭の中で“帰宅”という単語を浮かべた。
そこには市原がいる。
けれど──彼の目も、声も、最近は“遠い”。
近くにいるのに、何も届いてこないあの感じが、ふと胸に重くのしかかった。
「……行きます」
言ってから、少しだけ後悔した。
でももう、東條は立ち上がっていた。
※
東條の部屋は、思っていたよりも普通だった。
市原の自宅同様で別区画にあるタワマンではあったが、豪奢さよりは機能性が強く出たマンションだった。
玄関からリビングまで、無駄に飾られているものはない。
けれど清潔で、過剰ではない香りの残る空間。
「そこ、座ってて。飲み物、何がいい?」
「……水で、いいです」
答えたあと、ふと視線を泳がせる。
東條はキッチンに立ったまま、少しだけ笑っていた。
グラスを受け取って、一口飲む。
緊張で、唇がひどく乾いていた。
(……何してるんだろ、俺)
部屋に来て、何がしたかったのか。
自分の中にある“答え”が、曖昧すぎて気持ち悪い。
「……市原さ」
唐突に、その名前が出た。
「たぶん、君のこと、離さないよ」
智哉は反応できなかった。
「俺がちょっかい出してるのも把握してるんだろうな、あいつ。でも、“離さない”ってことはさ、裏を返せば――“逃げられる”ってことでもあるんだよね」
東條の言葉は、どこまでも軽やかだった。
けれど、それが一番、智哉の神経を逆撫でした。
「……なんで、そんなこと……」
絞り出すような声に、東條は首を傾げて笑う。
「いや、ごめん。ただ言ってみたくなっただけ。……で、ほんとに来ると思わなかったな、智哉くんが」
その言葉に、動きが止まる。
「……え?」
「うん。来るかどうか、試しただけだよ」
その一言が、頭の奥に響いた。
カン、と音を立てて、何かが割れたような気がした。
「……試した?」
「そう。“市原の子”が、どのくらい自立してるのかなーって」
東條は笑っていた。
まるで、“人”じゃなくて“構造”を見ているかのような目だった。
智哉の中で、急に何かが冷めた。
結局、自分の妄想だったことが思い知らされた気がした。
“智哉”を見てくれていると言う、妄想。
「……最低ですね」
小さな声だった。
でも、自分でも驚くくらい静かな怒りがそこにはあった。
ただこの怒りは、全部を東條に向けたものではない。
むしろ、簡単に騙されてしまう自分に向けたものだった。
「……ごめん。でも、君も来たでしょ?」
東條の声は変わらない。
その事実が、何よりも自分の浅ましさを突きつけてくる。
「来たってことは、揺れてるってことでしょ? それは悪いことじゃない」
「……でも、利用することは、違う」
その言葉に、東條は一瞬だけ表情を止めた。
でもすぐに、肩をすくめて笑った。
「そっか。じゃ、もう帰る?」
智哉は立ち上がった。
喉の奥が焼けつくようだった。
ドアに手をかけた瞬間、東條がふと言った。
「でも気づいたでしょ? 自分がどれだけ、市原に依存させられてるか」
振り返らなかった。
ただ、その言葉だけが、背中にずっと残っていた。
※
夜、部屋に戻ったとき、市原はまだリビングにいた。
「遅かったね」
その声は、柔らかかった。
でも、智哉にはその優しさが、いっそう遠く感じられた。
靴を脱ぎ、リビングに足を踏み入れながら、ふと思ってしまう。
(俺は、どこまでいけば“自分”になれるんだろう)
東條の部屋のドアの前で、ほんの一瞬、境界を超えかけた。
それが“試されただけ”だったとしても、自分の意思で踏み出した一歩だった。
――そして、そのあとに襲ってくる自己嫌悪も、全部、自分のものだった。
智哉はソファに腰を下ろし、市原の横顔を窺い見つめた。
(この人に、見られている)
そう思いながら、それでもその視線が、今夜だけはやけに痛かった。