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第37話 侵食

“あいつに飼われる人生でいいの?”


東條からのメッセージは、深夜、ふいに届いた。


意味深でも、露骨でもない。

ただの一文。

けれど、画面を見た瞬間に、智哉の中で何かがひび割れる音がした。


既読をつけることもできず、智哉は端末を裏返した。

けれど、言葉は脳裏に焼きついたまま、離れなかった。


(……なんで、今、これを)


東條にとっては、ほんの悪戯のようなものかもしれない。

けれど、こちらはもう、深く沈みかけている。


確かに、市原の優しさは心地いい。

言葉を選び、無理をさせず、支えてくれる。


でも、それが“優しさ”だけで構成されているなんて、もう思っていない。


市原は、時に何も言わずに見つめてくる。

そしてその目が語るものを、智哉は理解しようとしてしまう。

“そこまで見ていなくていい”と感じながらも、それを拒むことができなかった。


(俺が、許してしまってるんだ……)


智哉は、ソファの上で膝を抱えるように座った。

膝に顔を伏せ、ゆっくりと息を吐く。

市原はまだ帰宅していない。

静かな部屋の空気が、やけに冷たい。


“飼われる人生”――その言葉が、ぐるぐると回る。


――俺は、飼われてるのか?


(違う……たぶん、違う。でも……)


心のどこかで、否定できない自分がいる。


最近の市原は、あまり触れてこない。

まるで、自分の手から何かが零れていくのを、静かに見ているかのようだった。


いつものように事務所での仕事から帰ると、灯りのついたリビングに市原の姿があった。

パソコンの前で書類を整理している。


「おかえり」


優しい声。穏やかな表情。

まるで、何もなかったかのように。


「……戻りました」


智哉は鞄をソファに置き、キッチンへと向かった。

背中に、市原の視線を感じる。


けれど、それがどこか“熱を持たない”もののように思えた。


夕食は、さりげなく用意されていた。

おかずは好みのものばかりで、炊き立てのご飯、香の物。

完璧な配慮。

けれど、それが逆に怖かった。


(……機械みたいだ)


智哉は味噌汁を啜りながら、心の中で思った。

ここに“感情”があるのか。市原は、本当に自分を見ているのか。

それとも、何か別のものを見ているのか。


「食後、少し休むといい。今日、疲れてるみたいだし」


その声は優しい。

けれど、少しの間も置かずに出てくるその“労り”は、どこかで予測されていたようなタイミングだった。


市原の中に“答え”がすでにあるような、そんな息苦しさ。

じわりじわりと智哉の精神を追いつめてくるような……そんな感覚。


(……俺、今、どういう顔してるんだろう)


目を伏せて、箸を置いた。


「……市原さん」


その声に、市原は顔を上げた。


「何か、……話さなくて、いいんですか……」


問いは、まっすぐだった。

けれど、声は震えていた。

本当に訊いていいことなのか、智哉にはまだ判断がつかない。


市原は、少しだけ目を細めた。

それは、怒りでも苛立ちでもない。

ただ、ゆるやかに“壁”を感じさせる視線。


「……なんで、そう思うの?」

「わかんないです。でも、最近……触れてこなくなったし、優しいのに、遠い感じがして」


智哉の声は細く、かすれるようだった。

でも、もう止められなかった。


市原は、少しだけ眉を動かした。

その反応が答えだった。

すぐに視線を外され、会話はそれ以上続かなかった。


(俺は、“知らないままでいろ”ってことか……)


それでも、智哉はあきらめきれなかった。


夜、シャワーを浴びた後、リビングのソファで身体を寄せたときも、市原の手は一瞬、触れかけて、そして引いた。


(……俺は、飼われてるんじゃなくて――飼い慣らされてるんだ)


東條の言葉が、ようやく腹の底に落ちてくる。


それが間違いでも、そう思ってしまった時点で、もう、逃げ場はなかった。

市原の隣にいながら、智哉の心は、ゆっくりと別の場所へと沈んでいった。


そして、ただひとつ、思ってしまった。


(俺の居場所って、ここでよかったんだっけ……)


それが間違いでも、そう思ってしまった時点で、もう、逃げ場はなかった。


静かな室内。寄りかかる市原の肩越しに、智哉は自分の指先を見つめた。


(もし――)


胸の奥に、ふと浮かぶ。


(……もし、市原さんに飽きられたら……?)


その問いは、ひどく静かに、でも鋭く突き刺さった。


“知らない男に抱かれて稼ぐか、俺の“管理下”で生活するか。選べるのは君だよ”


かつてそう言われたことを思い出す。

確かに、あのときはその優しさに救われた。

けれど――それは“選ばれた”からこそ成立した言葉だった。


今、もし“選ばれない側”になったら。


自分は、どこに戻るのか。

誰に、どう扱われるのか。

あの言葉が、優しさでなく“境界線”だったとしたら――。


喉がひどく乾いていた。

舌を動かしても、唾液が出てこない。


市原の隣にいながら、智哉の心は、ゆっくりと別の場所へと沈んでいった。


そして、ただひとつ、思ってしまった。


(俺の居場所って、ここでよかったんだっけ……)

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