“あいつに飼われる人生でいいの?”
東條からのメッセージは、深夜、ふいに届いた。
意味深でも、露骨でもない。
ただの一文。
けれど、画面を見た瞬間に、智哉の中で何かがひび割れる音がした。
既読をつけることもできず、智哉は端末を裏返した。
けれど、言葉は脳裏に焼きついたまま、離れなかった。
(……なんで、今、これを)
東條にとっては、ほんの悪戯のようなものかもしれない。
けれど、こちらはもう、深く沈みかけている。
確かに、市原の優しさは心地いい。
言葉を選び、無理をさせず、支えてくれる。
でも、それが“優しさ”だけで構成されているなんて、もう思っていない。
市原は、時に何も言わずに見つめてくる。
そしてその目が語るものを、智哉は理解しようとしてしまう。
“そこまで見ていなくていい”と感じながらも、それを拒むことができなかった。
(俺が、許してしまってるんだ……)
智哉は、ソファの上で膝を抱えるように座った。
膝に顔を伏せ、ゆっくりと息を吐く。
市原はまだ帰宅していない。
静かな部屋の空気が、やけに冷たい。
“飼われる人生”――その言葉が、ぐるぐると回る。
――俺は、飼われてるのか?
(違う……たぶん、違う。でも……)
心のどこかで、否定できない自分がいる。
最近の市原は、あまり触れてこない。
まるで、自分の手から何かが零れていくのを、静かに見ているかのようだった。
いつものように事務所での仕事から帰ると、灯りのついたリビングに市原の姿があった。
パソコンの前で書類を整理している。
「おかえり」
優しい声。穏やかな表情。
まるで、何もなかったかのように。
「……戻りました」
智哉は鞄をソファに置き、キッチンへと向かった。
背中に、市原の視線を感じる。
けれど、それがどこか“熱を持たない”もののように思えた。
夕食は、さりげなく用意されていた。
おかずは好みのものばかりで、炊き立てのご飯、香の物。
完璧な配慮。
けれど、それが逆に怖かった。
(……機械みたいだ)
智哉は味噌汁を啜りながら、心の中で思った。
ここに“感情”があるのか。市原は、本当に自分を見ているのか。
それとも、何か別のものを見ているのか。
「食後、少し休むといい。今日、疲れてるみたいだし」
その声は優しい。
けれど、少しの間も置かずに出てくるその“労り”は、どこかで予測されていたようなタイミングだった。
市原の中に“答え”がすでにあるような、そんな息苦しさ。
じわりじわりと智哉の精神を追いつめてくるような……そんな感覚。
(……俺、今、どういう顔してるんだろう)
目を伏せて、箸を置いた。
「……市原さん」
その声に、市原は顔を上げた。
「何か、……話さなくて、いいんですか……」
問いは、まっすぐだった。
けれど、声は震えていた。
本当に訊いていいことなのか、智哉にはまだ判断がつかない。
市原は、少しだけ目を細めた。
それは、怒りでも苛立ちでもない。
ただ、ゆるやかに“壁”を感じさせる視線。
「……なんで、そう思うの?」
「わかんないです。でも、最近……触れてこなくなったし、優しいのに、遠い感じがして」
智哉の声は細く、かすれるようだった。
でも、もう止められなかった。
市原は、少しだけ眉を動かした。
その反応が答えだった。
すぐに視線を外され、会話はそれ以上続かなかった。
(俺は、“知らないままでいろ”ってことか……)
それでも、智哉はあきらめきれなかった。
夜、シャワーを浴びた後、リビングのソファで身体を寄せたときも、市原の手は一瞬、触れかけて、そして引いた。
(……俺は、飼われてるんじゃなくて――飼い慣らされてるんだ)
東條の言葉が、ようやく腹の底に落ちてくる。
それが間違いでも、そう思ってしまった時点で、もう、逃げ場はなかった。
市原の隣にいながら、智哉の心は、ゆっくりと別の場所へと沈んでいった。
そして、ただひとつ、思ってしまった。
(俺の居場所って、ここでよかったんだっけ……)
それが間違いでも、そう思ってしまった時点で、もう、逃げ場はなかった。
静かな室内。寄りかかる市原の肩越しに、智哉は自分の指先を見つめた。
(もし――)
胸の奥に、ふと浮かぶ。
(……もし、市原さんに飽きられたら……?)
その問いは、ひどく静かに、でも鋭く突き刺さった。
“知らない男に抱かれて稼ぐか、俺の“管理下”で生活するか。選べるのは君だよ”
かつてそう言われたことを思い出す。
確かに、あのときはその優しさに救われた。
けれど――それは“選ばれた”からこそ成立した言葉だった。
今、もし“選ばれない側”になったら。
自分は、どこに戻るのか。
誰に、どう扱われるのか。
あの言葉が、優しさでなく“境界線”だったとしたら――。
喉がひどく乾いていた。
舌を動かしても、唾液が出てこない。
市原の隣にいながら、智哉の心は、ゆっくりと別の場所へと沈んでいった。
そして、ただひとつ、思ってしまった。
(俺の居場所って、ここでよかったんだっけ……)