半径40億光年の範囲を持つ、情報子塊以外の光源が存在しない宇宙空間。
情報子塊から一億光年離れたある地点で、光と薄闇のグラデーションの一部がネジれた。
小さな違和感のようだったネジれは、渦を作りながらゆっくりと力強く、そして際限なく巨大化していく。自然な連続性を持って空間に広がっていた光が、ある中心に向かってメリメリと引き寄せられていく。
夜の色をしたテーブルクロスを、テーブルに空いていた小さな穴からズリズリと引き込んでいくような光景だ。引き込むスピードは変わらず、そこに作られるシワの大きさや範囲が見るほどに増加していく。そのクロス自体の大きさもまた際限は無い。
ネジれの大きさが数光年に至った時、中心の様子が変化する。
今まで多様な紺色と黒を混ぜ合わせたような色味だった中心が暗黒の口をネジれの動きに合わせて開けた。
その口もまたみるみる範囲を広げる。同時に、広がっていく暗黒の口の奥から靄のような光が迫り上がるように現れる。
暗黒は半径30km程の円を作ると拡大を止めた。靄も暗黒の縁を追って、その内径を埋めていく。
光は広がりながら回転し、中心点に吸い込まれるように動いている。光が強力過ぎるため視認は不可能だ。
渦の中心から、アダマントの黒い先頭が現れた。
「情報子塊からの重力波形再計算。シールドデータ変化、展開。」
アダマントからの報告を元に、アカリはスフィア内で、周辺環境と探査船アダマントの数値変化を30以上のモニターから確認し、異常や間違いが無いことを見て取る。
アカリ本体はフライトデッキに帰還後、アームに固定されると、装備を外すことなくそのままもう一度カタパルトに装填された。
アカリの意識は、引き続きダイヴスフィア内で身体と感覚を生成し、腰に手を当て毅然とした面持ちで立っている。
「情報子塊から、約一億光年地点に到着しました。ここからどう情報子塊へ向かう予定ですか?」
「先ず私が発進して、安全を確認する。私の合図で、ロールドローンを発進させて。ワープロールで加速して情報子塊に接近する。そこからは任せて」
「了解しました。アカリの合図で、10からのカウントダウンを始めます。」
アカリのスフィアに映された金属の壁から重たい駆動音と振動が伝わってくる。
ナツがヒュルリとスフィア内部に入ってきて、アカリの背後を取ると腰に両手を肘まで回してがっしりと抱きつき、臀部の上辺りに頬を当てた。
「ふーーっ……緊張するぜぇ〜」
アカリの視界に、自分の腰に当てた手を透けて通るナツの腕が見えた。なんとなく腰から手を退けて、腕組みの姿勢に変える。
「情報生命体にメンタルコントロールが必要なの?」
「……そういうアカリはどうなんよ、これでアダマントとお別れ……いや、この任務は、アカリ、あなたの最後の任務になるんだよ? なんか、もっと情緒的な何かはないのかね?」
「ありえない」
アカリは即答する。
アンドロイドとしての自分と、個人の自分の分裂を彼女は全く感じていない。終わらせること、それ以外をアカリは意識に置いていなかった。
恐らくナツも、意識から任務遂行以外の感情を排する事は可能なのだろうが、情報生命体としての彼女の演算は、現時点でそれを排する必要性を感じていないのだろう。
「アダマント、ここまでお疲れ様」
「任務の成功を祈ります、アカリ、ナツ。」
「カウントダウン開始」
青い光が無数の脈を伝ってドクドクと流れ始める。
「10……9……」
「ナツ」
「いいよ。行こうか」
「7……6……」
各スラスターにエネルギーの充填が完了。
メインエンジンが点火。
光速に至る加速力をノズルが虚空へ逃す。
情報子によって生成された可変ノズルが、時速数百kmほどの威力まで出力を抑えていく。
「4……3……」
誘導レーザーが装甲の下に潜り込む。
カタパルトの先が四つの台形に分裂し開いていく。
出口の先、情報子塊の青白い光が空間を作っていた。
「1……射出」
「約3.6×10の22乗の重力干渉。一億光年地点でこの数値なら、情報子塊の質量は7.95×10の79乗kgあたりになるかしら。そして1秒ごとに、空間を大きく歪曲させる重力波を発生させる……。」
球体の中でアカリは周辺環境の数値を確認しながら、戦闘機装甲のシールド計算を行っている。
情報子塊を正面にして、地球時計2時方向、70度上方に向けて、アカリは光速の70%程で前進している。
これはナツの提案した行動だった。
この情報子塊が作り出した空間に、確実に三人の妹がいる。その大きさは乗ってきた船にしろ本人にしろ、私たちと同じ人間大スケールのものだ。
「先ずは『目を合わせる』事を優先したい」
情報子と無限のエネルギーが誕生して間も無く、有識者たちの想定通り、宇宙戦争は苛烈になった。そして識者たちは、百数十年を経ても全く状況の悪化に歯止めがかからない戦争を見て、人類の暴力性の認識を改めることになった。
この戦争によって、300以上の星系に咲いていた人類文明が消失した。犠牲となった命は、300垓人に相当すると調査されている。
ナツの演算強化能力の性質が分かったのは、そんな状況の中だった。
夏姫の全てを背負ったアカリは、たった一人で、宇宙全域で全くの最高戦力と化した。
夏姫を持つ星系文化の異常戦力を批判して、あらゆる星系が協力し、100の旗艦が率いる総数50,000の戦艦隊が、アカリのいる星系に向けられた。
アカリは分散したそれらから全く攻撃を受けることなく、彼らの作戦を30分で崩壊させた。
無限のエネルギーという同じ舞台にいると思っていたアカリの、圧倒的な加速力と攻撃力。
報告の猶予もなくレーダーから消えていく、仲間を乗せた戦艦たち。
アカリという武器は、同じ星系の人類たちからでさえ、恐怖の象徴となった。
夏姫の姉妹は、それと同等の戦力を持っている。
そしてそのうちの春の名を冠する姫と戦闘になる可能性は、ナツの語るところによると2分の1。
「前進方向を3時に修正、角度は維持して。情報子塊へこれ以上近づかないことを心がけて」
「了解」
情報子塊が視界の中央から、左ななめ下方に潜り始めた頃、ナツが指示を出し、アカリは即座に従った。
「あなたの姉妹達は、この空間のどこから進入してきたの?」
「うーん、多分進入位置は等間隔だと思う。でもそこからどのルートで塊に近づいてるかは、さすがに。」
「どの方向から攻撃が来るのか想定はできない?」
「もし春ちゃんが私たちと逆方向に移動してたら、他の姉妹と会うと思うんだよね……。情報子塊を挟んで下を取られるっていうのは、多分無いと思」
アカリがメインエンジンに加速指示を出した。
光速の99.9%まで0.2秒で達する。アダマントからの観測では、光の粒だったアカリが、突如進行方向へ吹っ飛んでいくのが見えた。
そしてアカリの起こした光の糸のような軌跡を、突如として大木のような光線が引き裂くように伸びてきた。
光線の直径は約300km。その熱量は5000Kを超えている。
アカリはメインスラスターを横に向けて180度回頭、サブスラスターでバランスを取りながら、その方向へ光と化しながら吹っ飛ぶ。
もう一度メインスラスターを傾けて、135度右へ回頭し前進。
アカリの180度回頭前の進行方向へ一線。軌跡へ一線。アカリの二度目の回頭前の進行方向に一線。
合計4っつの光線が瞬くと、アカリのレーダーから攻撃の予兆が無くなった。
「ナツ!」
「あいよ!」
ダイヴスフィアから姿を消したナツは、戦闘機装甲に包まれたアカリ本体の背後に出現する。
そして目を瞑り、アカリの体へスルリと入り込み、一体となった。
同調またはシンクロ。
アカリとナツだけが知り得る、別人格との情報共有時間を短縮する手段だった。
この瞬間、二人は同一人物になり、それでいて思考の分裂は保たれる。
アカリとナツ、2つの情報処理人格に、アカリとナツを融合した3つ目の人格が現れるといったような状態である。
この矛盾した状況が、物理法則を破る情報処理速度を実現する。
通常演算速度が、情報子炉を点火し武装行使の準備ができるまで5秒をかけている間に、姫の演算は同じことを0.1秒未満で終わらせて、超光速で接近してくる。
無限のエネルギーが現実の制約を超え、圧倒的な速度で発現する。それが、姫が宇宙全てを敵に回しても勝利が確定している理由だった。
アカリがスフィア内の身体と感覚を分解し、全方向360度の視界情報処理状態に移行した。
「アダマントからできる限り距離を取りながら、ヒト型に変形後グラビトンタクトを起動。全開で迎え撃つよ」