純喫茶はいい。来るたびに、かよはそう思う。落ち着いた照明や内装。わかりやすく、老若男女が好きなメニュー。なかには喫煙ができるがゆえにタバコのにおいが強いところもあるが、普段嗅ぐことのない匂いはどこか特別感があるように思える。
かよのテーブルには、金の縁取りをしてユリの花が描かれているカップと、ミックスサンドが置かれている。コップの中身はブラックコーヒーだ。世の中はコーヒー派か紅茶派に分かれるようだが、かよはどちらも好きだ。
独特の香ばしい匂いを楽しみながら、皿に手を伸ばす。三角形のサンドイッチの中身はハムとレタスだった。
(はあ、本当に幸せ。純喫茶に来たときだけが、心休まる時間だあ)
ハムレタスサンドのパンには、うっすらとマヨネーズが塗ってあるようで、レタス独特の青臭さが抑えられている。シャキシャキのレタスと薄切りハムの相性は、サラダとは違ったよさがある。
ドアベルが鳴る。どうやら新しい客が入ってきたようだ。見ると4人のマダムたちが店員に案内され、窓際の4人席に案内された。とても楽しそうに話しており、店内が一気ににぎやかになる。
(これはこれで、いいものがあるんだよなあ)
にぎやかな客も、静かな客も受け入れてくれる。純喫茶の懐の広さを感じながら、かよはコーヒーをもう一口飲んだ。このコーヒーが終わったら、次はなにを飲もうか。
(紅茶にするか、それとも普段あまり飲まないココアにするか。このお店のココア、生クリームが浮かんでるから特別感あるんだよねえ)
空に浮かんでいる雲のようなクリームと、ココアの対比の美しさといったら。
(決めた。次はアイスココアにしよ)
時計は午後2時を指している。日差しも強く、もっとも暑い時間だ。かよは、追加でアイスココアを注文した。まだまだ、純喫茶タイムはこれからだ。
純喫茶を出たのは、夕方の4時頃だった。さすが夏、まだ暑い。
(はーっ、ずいぶん長い時間入り浸っちゃった。でも最高な時間だったなあ)
かよの足どりは軽い。これでまた、明日から仕事をがんばることができそうだ。
自宅に帰ってきて、部屋着に着替え終わった直後、スマートフォンが震えた。3回以上震えたので、電話のようだ。折りたたみ式のテーブルの上に置いてある、スマートフォンの画面を見ると【母さん】と表示されていた。
(またか)
かよは思わず溜息を吐いてしまった。先週も電話がかかってきたばかりだ。内容はいつもどおり愚痴だった。仕事や父に関することが主で、かよには直接関係のないことばかりだった。
かよはもう1度、深く溜息を吐き、着信に出た。
「もしもし」
『あ、かよ。お母さんよ。今、大丈夫?』
本当は純喫茶の余韻に浸っていたかったのだが、ここで断ったところで、次に話される愚痴が倍の量になるだけだ。
「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」
『もう、聞いてちょうだいよ。お父さんったらね……』
どうやら父はまた何気ない一言で、母の怒りを買ったようだ。父は少々無神経なところがあり、母はどちらかといえば神経質な人だ。よく結婚したな、と愚痴を聞くたびに思う。
『ほんと、お父さんって人の心に対して鈍感だわ。信じられないわよ。普通、お母さんが好きな歌手に対して『こんな若いのがいいのか』って言う? 若いから応援したくなるのに。お父さんみたいなオッサンより、若い子のほうが将来性もあるわよ』
「そっかあ。お母さんはただ、いっしょに『かっこいいね』って言ってほしかっただけなんだよね」
『そうなのよっ。普通に会話したかっただけなのに。お父さんっていつもそうなのよ』
母の愚痴を聞いていると、かよの心はどんどん、黒いなにかに浸食されていくような感覚に襲われる。浸食して、削って、奪っていく。けれど、かよは母を振り払うことができなかった。
かつて、母に言われたのだ。お母さんの味方はかよだけね、と。その言葉は鎖のように、かよを縛っている。おそらく母はそんな言葉を発したことなど、覚えていないだろう。けれど小学低学年のころから母の愚痴を聞き続けている、かよはに振り払い方などわかるはずがなかった。
母の愚痴は30分以上続いた。
『はー、すっきりした。ごめんね、時間とらせちゃって』
「ううん、大丈夫だよ」
本当は大丈夫ではない。あれほど楽しかった純喫茶の時間も今は色あせてしまった。ようやく通話を切ることを許されたかよは、ベッドに倒れ込む。
(いい休日だったのに……)
悲しい気持ちと疲弊で、かよは目を閉じた。
次の日、なんとか母の愚痴から立ち直り、出勤する。かよがパソコンにデータを入力していると、別の席から同僚の女性、鈴尾がやってきた。
「品川さあん、ごめんなさあい、これ今日中にお願いしていいですかあ? このあと用事があってえ」
今日中。かよは時計を見た。16時半。定時まで30分しかない。
(そういえば鈴尾さん、今婚活してるって言ってたっけ。……もしかしたら、今日相手の人と会うのかな?)
それならば、準備も必要だ。できればもう少し早めに言ってほしかったが、鈴尾なりに忙しかったのだろう。
「わかりました」
「ありがとうございますう」
鈴尾は機嫌よさそうに席に戻った。かよは残業になりそうだ。
(まあ、大した用事もないからいいけど)
しかし早めには帰りたい。かよは気合を入れ直し、仕事を再開した。