次の日も、かよの1日は変わらなかった。朝食と昼食のあと聖樹に祈りを捧げ、昼食後の祈りが終われば、純喫茶エリアの開店準備を行なう。純喫茶エリアで3つの料理やこの世界で飲まれるハーブティーを提供し、騎士や研究員たちと話をする。
(ああ、こんなに平和な1日が終わってしまうのか)
こんなに長い期間、穏やかな気持ちでいられたことはあっただろうか。いや、なかった。かよが、かよとしていられるのは、純喫茶で過ごしているあいだだけだった。
(でも、母さんを置いていくのは親不孝なんじゃないかな。それに仕事も急にやめたら迷惑だろうし。ああ、でもここに来た段階で迷惑かかってるか)
そんなとき、ケイの言葉を思い出す。
『誰かのためではなく、聖女様のために選んでいいんです』
そもそも、かよのためとは、いったい何だろうか。かよのためになる、とはどんなことなのだろうか。
(わからない。だって、私は便利なだけの存在だから。……便利じゃなくなったら、誰も認めてくれないだろうから)
かよの頭の中に今までの人生の出来事が浮かんでは消える。そういえば、1人の友人に会えば仕事での嫌な出来事を語られ、別の友人にはよく八つ当たりをされていた。その友人たちとは縁遠くなったが、会うたびに疲れが溜まっていた。会社では追加での仕事をよく頼まれ、残業も少なくなかった。
(ああ、そうか。私なら押しつけてもいいって思われてたのか)
ふと、別の友人のことも思い出す。その友人は自慢話が多く、時々かよを見下すような言葉を投げかけていた。
(なんだ。私の周りって私のことを好きでいてくれたわけじゃないんだ)
快感を得るために、自分の時間を確保するために、かよを使っていたのだ。じわりじわりと、かよの心が負の感情に蝕まれていく。
(苦しい。悲しい。きっと誰も、私を私として見てくれない)
そんな日に戻ると考えると、心が重くなっていくのがわかった。
閉店作業を終え、かよは自分の部屋に戻ってきた。ベッドに体を沈める。
(ああ、でも、どうでもいいか。だって、私は皆にとって、ただの道具なんだから)
枕に顔をうずめる。このまま窒息死できたら、どれだけ心が楽だろうか。しかし体は酸素を求めてしまい、窒息することはなかった。
そのとき、廊下側の扉がノックされた。入室を許可すると、ケイがいつものように食事を運んできた。
「聖女様、ずいぶんとお疲れのようですが、体調がすぐれませんか? それならばすぐに食事を変更いたしますが」
「ああ、いえ、大丈夫です。ちょっと考えごとしてただけなんで」
「……ご自身の心が、いまいちよくわかりませんか?」
ケイの問いにかよは小さく頷いた。わかるはずがない。するとケイが優しく微笑みながら、アドバイスをくれた。
「それなら、反対のことを考えてみるのがいいですよ。したくないことを考えればいいのです」
「したくない、こと」
「ええ。人という生き物は、一時的な困難には耐えられますが、長期的なものには耐えられないのです。心と体は繋がっていますから。どちらかが受け入れたくなければ、必ずなにかが壊れます。……
かよの心をがんじがらめにしていた鎖が、次々と崩れていくような気配がした。わかっている、ケイは聖女であるかよたちを、失うわけにはいかないのだ。たとえ聖樹が回復してきているとしても、完全に落ち着くまで帰らせるわけにはいかない。しかし、たとえそうだったとしても、ケイのその言葉はかよの固い心をほぐすのに十分だった。
ケイが「失礼」と言って、ハンカチでかよの目元を押さえた。どうやら涙を流していたらしい。これではまるで子どもだ。かよは急に恥ずかしくなってきた。
「すみません」
「いいえ、大丈夫ですよ。お辛い日々を過ごしていらっしゃったんですね。……聖女様、どうか後悔のない選択をなさってください。
ああ、ケイはなんと優しいのだろうか。職務という姿を見事に隠しながら、かよを気遣ってくれるとは。ならば、かよも職務が見えていないフリをするべきだろう。
「ありがとうございます」
幸いにも涙はすぐ止まった。かよの心はずいぶんと軽くなっていた。
ケイが退出したあと、かよは食事にすぐ手をつけず、ベッドに腰かけて考えた。
(私が、したくないこと、か)
頭の中に浮かぶのは、母の顔。
(母さんとは、会いたいと思えないな)
かよの心に次々と、したくないことが思い浮かぶ。雑に扱われたくない、嫌だと言ったことをしないでほしい、道具として扱わないでほしい、便利だなんて言わないでほしい。
(でも、そんな場所あるのかな……)
顔を上げると、食事が目に入った。かよたち聖女のため、と気遣われて作られた料理。自由に使わせてもらっている厨房で作られ、間借りしている食堂では騎士や研究員たちが食事をしている。
かよの中で自身の心と、なにかが繋がったような感覚がした。
(あった。この世界だ。ここの人たちは、私を雑には扱わなかった)
もちろん聖女という立場はある。しかし、それでもやりたいことのほとんどは、許可されていた。
(そうか、私に優しい世界は、ここにあったんだ)
かよはゆっくり立ち上がり、食事をとり始めた。心はずいぶん晴れやかになっていた。