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第8話

(また倒れてるのか? それともどさくさに紛れてあんなことをしたのがいやだったか……?)


 誠司は管理室で一人悩んでいた。悠真とは連絡先も交換している。電話には出ないし、メッセージも既読にならない。ますます心配になり、またスペアキーを使うことになるのかと、203号室のスペアキーを手に取った。管理室を施錠し外に出て、共有部分の通りを歩いていると、フラフラ歩いている悠真を見つけた。


「おい、悠真!」


 慌てて駆け寄った誠司は悠真の肩を掴んだ。その勢いで悠真の体が傾く。


「わっ、ど、どうしたの、悠真!」


 顔を見ると真っ青で目も虚ろだ。こちらを見ているのにまるで見ていないようで生気がない。


(一体、なにがあったんだ……)


 誠司は迷うことなく悠真を抱え上げ彼の自宅へと急ぐ。部屋の中は綺麗だった。まるで生活をしていた感じがないのが気になったが、とにかく悠真をベッドへ寝かせる。


「待ってろ、水を持ってくるからな」


 そう言って離れようとしたとき、悠真の手が誠司の腕を掴んだ。


「いい、から……ここにいて」


 弱々しくそう言われ、浮かせた腰を落ち着かせる。悠真の瞳にはいっぱいの涙が浮かんでいた。


「どうしたんだ? なにがあった? 俺に話せるなら話してくれ」


 悠真の手を握ると、彼の目尻から涙が一筋こぼれ落ちた。


「小説が書けなくなったから、一度すべてを投げ出したくなった」


 思いがけない言葉だった。つい最近デビューが決まったとお祝いをしたばかりなのに、そんなことがあるのかと驚く。


「なんど校正しても赤が入るんだ。僕にはもう才能はない……」


 赤と言われて首を傾げると、悠真が教えてくれる。赤入れとは原稿の校正、編集を行う作業のことらしい。主に赤字で修正案を書き入れられるため「赤入れ」と呼ばれる。

 赤入れでは文章の誤字や脱字、表記の揺れや意味のねじれ、重複表現などを指摘されるのだという。それが永遠に終わらなくて何度提出しても赤入れで返ってくるというのだ。それで自信をなくし投げ出したくなったらしい。


「悠真……そうだったのか。でもそれは悠真を困らせようとしているわけじゃないんだろ? よりよい作品にするためにその担当さんも頑張ってるんだと思う」

「わかってる、わかってるんだ。でもそれに僕は答えられない……だから……」


 眉間に皺を作って苦しそうに顔を歪める。こんな顔をしている悠真を見ていられなかった。


「俺は楽しみにしてるんだぞ。悠真の本を本屋さんで購入して読めるのを、楽しみにしてるんだ。だからもう少し頑張ってくれ」

「誠司さん……」

「本ができるまで、俺もサポートしてやる。旨い飯を作ってやる。だから最後までやりきるんだ。本が出るっていうのは才能だろう? もう悠真には才能があるんだよ」


 こんな励ましで悠真が奮い立ってくれるのかわからないが、本心で必死に悠真に気持ちを伝えた。


「そう、なのかな?」

「そうだよ、悠真。こんなに顔色悪くして。また食べてないな?」

「……ごめん」


 へにゃっと笑う悠真がかわいくて、思わずキスしたくなる衝動を必死に抑えた。


「じゃあなにか作ってやる。なにがいい?」

「えっと……クレープ」


 立ち上がってキッチンへ向かいながら食べたいものを聞けば、予想外なリクエストを飛ばされた。誠司は足を止めて悠真の方を振り返ると、彼は子供のように舌を出していた。


「まったく、わがままな王子様だな」


 そう言いつつ冷蔵庫を開ける。そこには悠真の好きな生クリームのスプレー缶があり、果物は以前誠司が差し入れた缶詰でいけそうだ。トッピングは誠司が置いたおやつボックスに入っている板チョコを刻めば使えるだろう。


「誠司さん、なんでそんなに僕にやさしいの? いくらお節介が趣味でも、ここまでしてくれる理由って……」

「え? 理由? それは、俺が悠真を好きだから。ただそれだけさ」


 これは嘘偽りのない誠司の本音だ。これでもし悠真に嫌われてもそれはそれでしかたがない。キッチンの中で悠真に背中を向けて作業を進める。今、彼がどんな顔でこちらを見ているのか確認するのが怖かった。しかし背後から押される衝撃があって誠司は手を止めた。


「僕も、誠司さんが好き。きっともう、誠司さんがいないと……生きていけないかも」


 背中に感じる悠真の熱は、誠司の心を熱くさせた。互いの気持ちをもっとちゃんと確かめるには、じっくりと時間をかけていくのがいいだろうと思う、誠司なのだった。


おわり

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