生きる事は理不尽に耐える事だとずっと思ってきた。
躊躇いながらも非常階段を登り切り軋むドアを開けた瞬間目の前にあったのは不気味すぎる位大きな赤い月だった。人生最後の夜、この目に焼き付くにはおあつらえ向きな光景だ。
気持ち悪いお前への餞だと、誰かが嘲笑っているようだ。
不意に強く吹き抜けた風に乗せて笑い声がする。
『飛べよ』という地を這う男の声。『おいで』という揺れる女の声。これらは決して青年の幻聴ではなく事実なのに、その他大勢に訴えても信じてもらえず無視される。
挙げ句罵倒の声は青年の口を塞ぎ呼吸すら阻む暴力となって返ってきた。『ウザい』と言ったクラスメイトに振り払われた腕。『嘘つき』と睨み付ける人の食いしばる口元。『お前など産まれてこなければ』といった両親の怨嗟の目。
目に見えるモノがその他大勢にとっての『非現実』である以上、青年にとっての『事実』は理解される日はこない。
故に孤独だ。
よろよろとする足を踏ん張り白く真新しいフェンスへと向かう最中、見えたビルの明かりは楽しそうに瞬いている。誘うように点滅して、色とりどりに踊って……真っ暗な場所にいる青年に『こっちにおいで』と呼びかけているようだ。
楽しそうだ。テレビで見た遊園地は、こんな夢の世界なんだろう。
俯いたままフェンスの前にきっちり靴を揃えて置いて、青年はそれを越えた。
冷たいコンクリートの感触が靴下越しに伝わってくる。じっとりと汗をかく足裏は妙に冷えている。その指で、ビルの縁を掴んだ。
高層ビルから見下ろす闇に突如現れる青白い手がこちらに向けて伸びる。助けて欲しいのか引きずり込みたいのかも分からない。けれどきっと、苦しいんだろう。引きつり折れ曲がったそれは藻掻くようだ。
だからこそ怖くなる。ここに立って改めて、この終わりは望んだものかと自問する。違う方法はないのか? 今ならまだ引き返せる! そう訴える自分も確かにいる。
足が竦み、浅く息が切れた。足元からきた震えは「止めろ」と抵抗を試みている。
けれど同時に上司の罵倒が耳元でした。
「使えないクズ!」「死ねよ!」「ゴミ以下」という激しい言葉と振るわれる暴力に胃が痙攣して口の中が酸っぱくなった。もう八年、これに耐えたのだ。
「終わろう」
決定づける自分の声に抑揚はなく、背負っていたリュックを前に持ち直して抱える。入っているのはスマホと遺書と出せなかった辞職願だ。
拭き上げる風が薄っぺらいリクルートスーツをはためかせる。改めて見下ろす先に地面は見えない。ゴクリと生唾を飲み込み、見えているから踏ん切りがつかないのだと目を瞑り、自分の中でカウントをする。
五、四、三、二……っ一!
その瞬間、ざわめく風も怨嗟の声も……全てが止まった。
「こんばんは。月が綺麗ですね」
無音の世界に響く何でもない挨拶は、あんまりにも異質だった。それは朗らかに、妖艶に耳の直ぐ側でする。ふわりと鼻先を掠めた甘く仄かな匂いは上品な香を思わせる。
驚いて目を開けた青年は次に情けない声で叫び後退り、激しくフェンスに体をぶつけた勢いで転がるように安全な地に倒れる。
その様子を、男は可笑しそうに笑った。
茶色いチェックのカジュアルスーツをオシャレに着こなし、長い茶色の髪を緩く結んだ男はとても綺麗な顔をしている。女性的とも思える輪郭に通った鼻筋。そして切れ長の瞳は今日の月のように赤かった。
でも、ありえない。人に見えてもコレは人ではない!
何故なら男がいるのはビルの縁にいた青年よりも外側。その立ち位置は今も変わっていないんだ。
急激に渇く喉と締め上げられる胸の痛み。極度の緊張に晒される体は目に見えて震える。抜けた腰で目一杯後退りながらも視線は男から離せない。
そんな青年に笑いかけながら、男は屋上へと降り立った。
「おや、死なないのですか?」
「そのつもりでしたけれど」
「邪魔をしてしまいましたか。どうぞお気になさらず、続きをどうぞ」
「いや無理があります!」
流石にそんな気力は萎えた。自殺は勢いとタイミングが必要なのだと知る。
同時に、生を望む自分に気づく。静寂の中で自分の心音だけが五月蠅く鳴っているのを感じると、生きている今を感じる。
そんな青年に男は笑い近づいてくる。逃げるにも腰は抜け、限界もある。気づけば壁際へと追い込まれてしまった。
ほっそりとした男の指が顎を撫で、僅かに持ち上げる。覗き込んでくる瞳は星を散らしたような輝きがある。吸い込まれる怪しさも……その先に見える、銀色の……。
「おや、私の正体を覗こうなんていけない子。せっかく命拾いしたのに、食べられてしまいたのですか?」
「え?」
「黎明の瞳など、人の身には分不相応なものを持っているから苦労なさるのです。いっそ、私に渡してくださればいいのに」
黎明の瞳。耳馴染みの無い単語に数度瞬きをした青年はゆっくりと言葉を反芻する。そして次に弾かれたように腰を上げて男の腕を掴み縋った。
「あげます! こんな目、俺は望んでいない!」
こんなものがなければ普通でいられた。気味悪がられる事も、嘘つきと言われる事も、疎まれ憎まれ罵倒されることもなかった。人では無い何かなど感じずに生きられるんだ。
だが男はジッとこちらを見下ろし、意地悪な微笑を浮かべる。心なしか怒っているようにも見える表情で。
「では、死んでください」
「え?」
「その目は前の持ち主が死なねば譲渡ができません。貴方が死ねば喜んで私がもらい受けましょう。どうぞ」
そう言って再度フェンスへとエスコートしようとする男に、青年は激しく首を横に振って拒み、胸を押してまた尻餅をついた。
そんな青年を男はからかうように笑うのだ。
「おかしなものですね、人間は。先程は死にたかったのでしょ?」
「もう死にません! 生きます!」
「そう。では……そうですね。貴方、私の所で働く気はありませんか?」
「え?」
唐突な言葉の意味を計りかね、呆然と見上げてしまった。この綺麗な人外は一体、何を考えてそんな事を言うのか。全くもって理解ができなかったんだ。
「あの、なんで?」
「死にたい程に辛いのでしょ? 望まぬものを見てしまう目も、耳も」
「そうですけれど……」
それと働く事になんの関係があるのかが分からない。
見つめる先で男はふと目を細め、辺りを見回した。
「静かですね」
「え? えぇ」
「私と貴方の二人きりです」
「そう、ですね?」
確かに静かだ。風の音も雑音も……声が、聞こえない……。
ハッとして青年は辺りを見回し耳をそばだてた。だが何も見えず聞こえない。世界は静寂に満ちている。立ち上がり、普段は居る暗がりを覗き込んでもなにもない。
その事実に涙が零れた。腹の底が熱くなってくる程に、望んだ世界がここにある。
「これを、提供いたしましょう。そのかわり、私は貴方の目を望みます」
「死ねって事ですか!」
「いいえ。協力して欲しいのですよ、その目を使って」
それは、どういう協力だろう。
男は近づき、一枚の名刺を握らせる。ザラリとした質感に筆の文字で書かれたそれには『九尾累』と名があった。
「お待ちしておりますよ、堂上晴信さん」
その声を最後に強い風が吹き込み霧散したかのように男の姿が消え、再び雑音が忍び寄る。
汗ばむ手で握り潰しそうな名刺を見つめる晴信は、初めての静寂が既に恋しくて涙が滲んだ。