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第2話 転職案内

 翌日、けたたまし着信音で晴信は飛び起きた。

 それもそのはず。時計は既に午前十時を回っていて、スマホ画面には着信履歴が数十件。メッセージが同じ数だけ直属の上司の名前で表示されている。

 試しに一つ開いてみれば『早くしろボケカスクソが!』だった。


「はぁ……」


 気力が全て萎えて脱力感しかない。普段よりも寝たはずなのに一切の疲れが取れていないのはおそらく金縛りのせいもあるだろうが、この現実がトドメだ。


 それでも何もせず引きこもっていれば殴り込まれる。

 以前熱が三十九度近く出て流石に動けず会社に懇切丁寧に事情を説明し病院に行く旨を連絡したら、その十分後くらいに上司の三上が来て車に放り込まれ会社に拉致された。更に『送迎費と迷惑料』と言われて財布から二万円ほど抜かれ、その月は一日一食で生活するはめになったのだ。

 あの地獄を思えば大人しく出社するのが賢い選択だと思う。


 だが思うだけで体は動かない。糸の切れた操り人形のようだ。

 ぼーと上半身を起こしたまま頼りなくスマホ画面を眺めていると、不意に新着が入って驚き声を上げてしまう。

 また上司からの脅迫か! 怯えながらも確認して、思わず「は?」と短い疑問の声が漏れた。


『転職のご案内』


 件名は短くそれだけ。だが晴信には覚えがある。慌てて記憶を探り昨日のスーツに飛びついてポケットを漁ると、少しよれた名刺が一枚出てくる。

 九尾累。そう書かれた名刺と事務所らしい場所へのアクセスが。


「転職……」


 その言葉がふいに、晴信を突き動かした。


◇◆◇


 社宅最寄りの駅から二駅、職場の入る複合ビルを避けて落ち着いた方へ向かう。平日の日中では人通りはまばらだが道沿いに建つ一つの雑居ビルが目的地だ。

 三階建てで一階は準備中の札が下がった焼き鳥屋。その脇にある二階へと続く階段は鉄筋製で人一人が通れる狭さだった。登っていくと足音が響く。そこを登り切った左手にあるドアに、事務所の名前が書かれてある。


「よろず相談所……るい?」

かさね、と読みます」


 不意に耳元でした色っぽい男の声に鳥肌が立つと同時に悲鳴を上げた晴信は振り向く。そしてそこに昨夜の男がいるのを見て声にならない声を上げた。


 黒のスラックスに深い茶のシャツ。それに深いグレーのベストを着た九尾が優雅に微笑んでいる。茶の髪を緩く結んで左肩に掛け、胡散臭い丸眼鏡を掛けて。


 やはりこの男は人ではない。晴信が階段を登った時に後ろに気配なんてなかった。何より登る音がしない。人が隠れる場所も無いここで突然背後に立たれた。

 やはりここに来たのは間違いだったのか。そんな後悔が既にある晴信など知らぬ顔で、九尾はニッコリと笑い先を促した。


 招かれた事務所はごく一般的なものに思える。

 表通りに面した大きな窓に、それを背にしたデスク。清潔感のある白い壁紙や床だが、天井はややくすんでも見える。デスクの前には応接用のソファーとローテーブルがあり、そこへと晴信は招かれて座った。


「昨夜ぶりですね、晴信さん。昨夜はよく眠れましたか?」

「あっ……いや、あまり眠れませんでした。金縛りが酷くて眠りが浅くなるんです」


 それでも昨夜は大人しかった。酷い時など延々と耳元で老若男女が恨み言を呟き、縁もゆかりもない人物が首を絞め、挙げ句の果てには足首を持たれて部屋中を引きずり回されるのだ。寝ろという方が無理がある。


 それは晴信の顔にもありありと出ている。深く刻まれた隈など描いたように黒く、痩せた頬は病気を疑われるレベル。健康診断などもう八年受けていないが、何かしら異常値ではと確信している。

 そのような晴信を見る九尾の目は自然と痛ましそうになり、お茶とお茶菓子が多めに出された。


「そのような日常はさぞ大変でしょう」

「あの! 昨日のあれ……あれは本当なんですか! あの静かさを提供してくれるって約束は、本当ですか!」


 それだけが希望なのだ。

 急き込む晴信をジッと見つめる九尾が辺りを見る。それで晴信もハッとして見回した。

 辺りは昨夜のように静かだ。窓の外から恨めしく見つめてくる巨大な目玉や、机の下から足を掴む青白い手もない。常に歩き回る子供の足音や助けを求める声も聞こえない。


 信じられず九尾を見ると、彼はにっこりと微笑んでいる。自慢げに。


「このビルは私の結界で守られておりますので、許しのない者は入ってこられません。ご希望でしたら三階に部屋が御座いますので、提供いたしましょう」

「本当に! じゃあもう夜中に叫び声で起こされる事も、首を絞められる事も引きずり回される事もなくなるんですね!」

「随分とスリリングな夜を過ごされていたのですね」


 コレには流石に呆れられてしまったが、晴信の日常なのでどうしようもない。

 だが俄然、ここに転職をしたい気持ちは増していく。

 問題はここの業務内容だ。まったく見えてこない。そもそもここはどんな仕事をしているのか? よろず相談所とあるから、便利屋か何かなのか。


「あの、業務内容を教えていただけますか?」

「えぇ、構いませんよ」


 そう言うと九尾は席を立ち、デスクから何やら紙を持ってくる。簡単に書かれたそれは仕事内容の覚え書きのようだ。


「主に困りごとを解決するのが仕事です。万屋……とでも言いましょうか。このくらいの季節には引っ越しの手伝いや清掃活動が多い印象ですね」

「……待って下さい。依頼主の所に『人間・幽霊・妖怪の皆様』とあるのですが」


 見間違い、ではないだろう。この文言は文書のあちこちに出て来る。何より目の前の人が既に人外だ。

 綺麗な笑みがいっそ意地悪に見える。彼は確かに頷いた。


「そうですね」

「幽霊や妖怪のお願い事も聞くんですか! 呪われたり怖かったりしませんか!」

「おや、失礼な。確かに見てくれは異なりますが、お客様としてはなんら問題はありませんよ。妖怪などは可愛らしいもので、某有名コーヒーショップの新作フラペチーノが飲みたいとか、美味しい酒が欲しいとか」


 そんな女子高生やサラリーマンみたいな頼み事なのか……。

 思わず脱力してしまった。


 九尾は比較的真面目な顔を作るとこちらを真っ直ぐに見つめる。その空気に背筋を伸ばした晴信に、彼はゆっくりと言葉を発した。


「正直に言えば、人の依頼が一番面倒です。そしてそれこそが、私が貴方の目を求める理由でもあるのです」

「俺の、目を?」

「えぇ。黎明の瞳は邪を見抜く。幽霊も妖怪も呪いも、その正体を看破されると力を失うものなのです。ですが、私は目が利かなくモノの正体が見抜けない。呪いの在処、幽霊の嘆き、化けた妖怪の正体。それらを見る事ができません」

「でも、貴方だって人外なのに」

「そうですね。昔は見えていたのですよ? でもまぁ、事情がありましてね。そのせいで今は出来損ないとそこらの雑魚に笑われて腹が立つったらありゃしません。吹けば飛ぶ程度の奴等なのに」


 何やら、深い事情がありそうだ。でもおいそれとは聞けない。そんな雰囲気がある。

 利益は十分すぎるくらいある。住み込み可というのも有り難い。けれど以前として業務内容の不明点が多く不安しか無い。この材料で判断するのは難しい。


 でもその時再びスマホがけたたましく鳴り、思わず通話をタップするといきなり恫喝が発せられた。


『おいテメェ! 何処で何してやがる! さっさとこい!』


 それだけで通話が切れた。

 茫然自失。残るのは胸の重石のみ。ズンと沈む気持ちに目が死んでいくのを見た九尾が、小さな笑みを浮かべた。


「では、実際に体験してみましょうか?」

「体験? 何をですか?」

「もちろん、お仕事ですよ」


 とびきりの悪戯し仕掛ける前のような楽しげな様子の九尾を見て、晴信はやはり間違いではと後悔する。

 だがもう、乗りかかったのだ。それに現状維持は確実に地獄なのだから進んでみるしかない。例えその先が更なる地獄であろうとも。


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