上司からの怒り爆発通話から三十分後、晴信はオフィスの入るビルの前にいた。
しかも一人で。
心細さを通り越して死刑宣告を受けに行く気分でICカードを読ませてエレベーターに乗り込み地上十階へ。そこにある一室がオフィスだ。
主にweb広告を作成している。晴信はそこの制作スタッフなのだが、ブラックだ。
圧倒的に営業が権力を持ち威張り散らし、制作は小さくなっている。納期や作業状態など無視して先方に取り入り無茶な仕事を取ってきて丸投げするものだから地獄だ。
そのせいか離職率が高く、更に事故も多い。過労気味で転倒し大怪我をしたり、最悪死亡というのも過去にあったとか。
晴信も上司の三上に無理な仕事を押しつけられて日中は先方とやり取りをするだけで終わる日も多く、実質作業は業務外。週五で終電ギリギリまで残業し、月四で休日出勤。残業代は何故か貰った事がない。
オフィスが近付くにつれて動悸がしてきた。頭も痛い。同時に色々なものがまた見えてくる。多いんだ、この会社。
それでも手に汗をかいたままドアを開けると即刻上司が近付いてくる。短い黒髪を刈り上げた体格のいい彼は晴信を殺しそうな目をして迫り、そのまま腕を掴んで資料室へと連れていく。
そして無言のまま晴信の腹を思い切り殴った。
込み上げる吐き気と痛みに呻き、衝撃でアルミラックにぶつかって倒れる。薄暗く陰気なこの場所は先輩達が憂さ晴らしをするのによく使われている。
三上は腹を押さえて嗚咽を漏らす晴信の胸や腹を更に蹴りつけ、踏みつける。よれたスーツが更に皺だらけになってしまう。
「おい、今何時か言ってみろ」
「あっ、十、五時ぃ!」
「あぁ、そうだな。いいご身分だよなぁ、お前は。仕事もできねぇくせに重役気取りか? あぁ?」
もう一発鋭いつま先が腹にめり込んで、今度こそ吐いた。とは言っても先程飲んだお茶しかでなくて、喉を焼くような痛みが強かったが。
「きたねぇな。終わるまで帰るなよ」
無様な姿を見て興が醒めたのか吐き捨てて、三上は出ていった。
やっぱり惨めだ。痛む腹を抱え込み小さく丸まって声を殺して嗚咽する。床は冷たく、この声に反応する生者はない。
不意に視界が陰り、見上げた先に見えたものに怯えた声を上げる。首に縄をつけた四十代くらいのスーツの男が、恨めしそうに晴信を見下ろしている。幽霊に足が無いというのは嘘だ。しっかり足まである。
この人は大抵この資料室にいる。ここで死んだのかもしれないが、そうした事実は見当たらない。でも他には出ないから、ここに縁のある人だ。
冷静に見る。そう、九尾は言って晴信を送り出した。上手くすると会社ごと消せると言って。
正直怖い。色の失われた幽霊はどれもおどろおどろしい。そして大抵が酷い状態だ。目は虚ろで何処を見ているのかも分からず、死に方によっては顔が半分無かったり、腕や足が折れ曲がっていたり。
そう、そんなモノがあの人にも取り憑いている。
そっと資料室のドアを薄く開けて見た三上の背中には今日もいる。きっと飛び降りたんだろうと思える若い青年だ。天パなのは間違いないのだが、顔の右半分が潰れて分からない。首も捻れているし、腕も足もおかしな方向を向いている。
この幽霊はこんな状態だから自力で移動はしないが、三上が会社にくるとすかさず背中に張り付いている。にも関わらず平気そうなあの人はどうなっているんだ。
何にしてもここに来た理由がある。自分の手でこの理不尽を終わらせる為だ。
まずは深夜まで残業をする。これが九尾からの指示だった。
気づけば二十三時を過ぎた。言われるがまま仕事をして、縮こまった背中を伸ばすとコトンと音がしてそちらを見た晴信は一瞬たじろぐ。
デスクの下の暗がりから青白い手が伸びて、一本の缶コーヒーを置いた。でもこの相手だけは知っているから、晴信は切ない思いで暗がりを覗き込む。
ぐっしょりと濡れた長い髪の女性だ。目は濁り、苦悶の表情を浮かべているが生前は美人だった。
「有野先輩、どうして死んじゃったんですか」
そう、やりきれない思いで呟いた。
彼女は晴信の教育係だった。優しくて気遣いの出来る、清楚なお姉さんだった。
けれど晴信が入社して半年後、突如橋から身投げしてしまったのだ。遺書はなし。だが検死の結果妊娠二ヶ月である事が分かり、恋愛トラブルからの自殺で処理された。
でも有野は何も言っていなかった。彼氏がいるとも、なんとも。殺されたとは言わなくても原因はここにある。彼女の幽霊に遭遇して、晴信はそう確信した。
「おや、幽霊と逢い引きとは晴信さんも隅に置けませんね」
不意に声がして晴信は今度こそ叫び床に転がった。そうして声の方を見て、心底恨めしく睨んだ。
「九尾さん、突然現れるのは驚くのでやめてください」
「おや、失礼。これも人外の特権ですし、沢山驚いて下さるのでついからかってみたくなるのですよ」
「迷惑です!」
可笑しそうに笑う意地悪な人を睨みながら晴信は立ち上がる。そしてジッと、九尾を見た。
「どう、したらいいんですか?」
その問いかけに、九尾は静かに頷いた。
「ここに居る四体の霊は酷く怒っています。同時に、その机の下の女性と体の折れ曲がった青年は貴方を気にしている。そして、探せと言っているのですが」
「九尾さんには、見つけられない?」
問いに、彼は憎らしく頷いた。
あの夜、彼がこのビルに居たのは他のオフィスからの相談だったそうだ。幽霊が出ると。その下調べでこのオフィスに当たりを付けて帰ろうとしていた所で、晴信と出会ったとか。
ここの幽霊の声を拾い、何やら『探して』というのは分かったが目が利かない彼では探せない。それを見つけるのが今回の目的だ。
「見ようと願って、目に集中して。怖がらず、従えるのです。彼らの無念が貴方を導く」
静かなのに華のある声がそう囁く。耳を傾け、目を閉じて数回深呼吸をして、そっと目を開けた。
真っ暗なオフィスは静まりかえっている。だが一点、闇を更に濃くしている場所がある。近付いて、そのドアの前に立った晴信はノブに手をかける。
明かりのない資料室は更に陰鬱で湿り気を感じる。それに混じり何かが腐ったような生臭さもあって思わず袖で鼻を覆った。
「なに、この臭い」
「追いましょうか」
幾つかのラックを越えて一番奥が更に臭う。壁際の通路に立って目を凝らすと、一番奥のラックの一番下に箱がある。そこから黒い霧が出ていた。
急き込みながら近付いて手にすると、箱には『重要』とある。社長や専務しか開けられない決まりの奴だ。でも明らかにこれだと分かる。
そっと開けてみると、中に入っていたのはノートが一冊、手帳、USBメモリー、スマホ。これの何が重要なのか分からず手を触れようとしたその時、耳元で若い男が『ウシロ!』と叫んだ。
見上げた先には黒い人影。それは幽霊か人間か一瞬は分からなかった。分かったのはそいつが晴信の胸ぐらを掴み思い切り殴りつけ、更には強い力で蹴ってからだった。
「死ねよマジで!」
「み、かみさ! なっ!」
暗闇に慣れだした目が男を捉える。三上の目には間違いなく殺意があり、資料室の壁に叩きつけられた晴信に逃げ道はない。こんな時に九尾の姿もない。
「あぁ、マジ最悪だ。ほんと碌なことしないなお前!」
そう言って本気で蹴ってくる。普段は顔を攻撃しないのに今はお構いなしで、口も鼻も血の臭いがする。蹴られすぎて腹が痛くて吐き気がする。このまま殺されるんだと覚悟した、その時だった。
鼻先を甘い匂いが掠める。徳の高い、花のような香りが。
「そろそろ引導ですかね?」
軽やかな声は三上にも聞こえたのだろう。振り向き、興奮で息を切らす男の爛々とした視線が、優雅に佇む九尾を捉えた。
「なっ、あ?」
「残念ながら地獄行き。まぁ、悪因悪果と思い諦めてくださいませ」
「なんだテメェは!」
怒鳴りながら殴る姿勢に晴信は咄嗟に「危ない!」と声をかけた。だがそれよりも前に三上の首が不自然に後ろへと反った。
「新橋!」
あり得るはずがないという目で三上はソレを見る。顔が半分潰れた天パの幽霊が三上の顎を折れ曲がった手で掴み、後ろに引いていた。
そしてその名を晴信は知っている。かつての同僚だ。病気をして、実家に帰ったと聞いていたのに。
新橋の幽霊を振り払おうと三上が暴れる。滅茶苦茶に腕を振り回し、離れた所で猛然と逃げていく。だが新橋はそれを追いかけていく。その姿を呆然と見ていると九尾がきて、ハンカチで口と鼻を押さえてくれた。
「なんで、三上さんに見えて」
「私が場の霊力を上げたからですよ。見えませんが、こういうことは出来るのです」
そんな事を暢気に話していると、微かに男の叫び声がした。痛む体を持ち上げ、のろのろとオフィスを出るも三上の姿はない。けれど目の端に非常階段へ続く扉が開いているのを見つけた。
近付いて、ドアを出て……その下で三上は倒れていた。首が折れ、腕と足もおかしな方向に折れた状態で。
後退り震え壁に背を付けた晴信は警察に連絡した。震えて上手くタップできなかったけれど、どうにか。
十数分で駆けつけた警察に事の次第を話、数人は警備室へと向かっていく。九尾はいつの間にか消えていて、晴信は幽霊の事を除いて話をした。
刑事は訝しんだが晴信の姿はオフィスや廊下の監視カメラに映っていたし、三上が錯乱しなが非常階段へ向かうのも録画されていた。
その後、晴信が見つけた物を警察に提出すると中から色々なものが見つかり、社長含めた数人が逮捕され、管理会社からは退去勧告を受け、取引先もいなくなった。
実質、会社はなくなったのだ。
後味の悪い事だったが、強制的に辞職となった晴信は改めて九尾の事務所の前にいる。階段を登り、ドアを開けると優雅にお茶をする麗人がニッコリと微笑んだ。
「本日からこちらでお世話になります、堂上晴信です。よろしくお願いします」
「えぇ、こちらこそ」
頃は三月の終わり。転職というならきっと、おあつらえ向きだろう。