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5話 淀みを祓う(10)

 会議室用の長机を一つ配置し、そこに白い敷布を掛ける。

 九尾が最初に中央に鏡を置く。その横に晴信が榊の枝を、石川が御神酒と塩と米を供えた。そして最後に九尾が香炉に小さな四角い木切れを入れてそこに火をつける。

 ふわりと甘い香りが室内を満たしていくと、不意に背が冷たくなって晴信は落ち着かなく辺りを見回す。ザワザワした気配に声、視線もある。


「九尾さん!」


 怖くなって名を呼ぶが、彼は頷くばかり。スッと息を吸い、ゆっくりと吐ききってからパンッと一つ、大きく柏手を打った。


『斯くぞ道なり。彷徨う魂を黄泉津路へと導く神籬なり。つつしみて穢れなく通りませ。天津祝詞の太祝詞、祓いたまえ、清めたまえ』


 厳かであり清らかな声が九尾の唇から紡がれる。香の匂いに乗せて清浄なものが場を満たしていくのを感じる。体が軽くなり、背筋が伸びていくと同時に涙が出た。


 不意に、背後が動いた。ゾロゾロと色を失った人々が通り過ぎていく。晴信の、石川の直ぐ側を通り抜けていくのに不思議と恐怖はなく、皆が一様に鏡へと向かい消えていくのをただ見ている。

 不意に、その中に知った顔があった。暴れている元上司の三上の顔。その三上を押さえつけるように鏡へと引っ張っていくのは元教育係だった有野と、ほんの僅かだが一緒に仕事をした新橋だ。

 二人はこちらに気づいたのか一瞬視線が合わさって、ニッコリと笑ったのが分かった。


 胸の奥がギュッと締め付けられる。寂しさと感謝と救われた事への安堵がない交ぜになっていく。そうして心から彼らの冥福を祈っている間に、香の匂いが薄らいで辺りの騒々しさが消えていった。


 フッと九尾が息をついたのが分かる。その音にハッとして見ると、彼の額からは僅かに汗が滲んでいるように思えた。表情も何処か浮かないもので、晴信は慌てて駆け寄って彼の手を取った。


「大丈夫ですか?」


 この問いかけに九尾はどこか驚いた顔をしたが、次には目尻を下げて柔らかく微笑んで頷いた。


「問題ありませんよ」


 その言葉に、晴信はほっと息を吐いた。


◇◆◇


 無事に儀式を終える事が出来た晴信と九尾は注意事項を石川に託しビルを後にした。

 大変だったけれど清々しい気分でウンと伸びをする。背筋が伸びて、気持ちも伸びやかになっていく気がする。


「お別れはできましたか?」


 不意に問われ、そちらを見る。九尾の顔色はあまり優れないまでも動けない程ではなく、今も歩いて帰ろうとしている。石川などはタクシーを呼ぼうとしたが、もったいないと断って出てきた。


 彼の言わんとしている事が晴信にも伝わる。かつての同僚の事を言っているのだろう。

 鏡へと向かっていく二人は満足そうな顔をして三上を引きずっていった。その満ち足りた様子と安堵の笑みを思い出すと体の奥の方がシャンとする。共に過ごした彼らに、こんな形ではあるが恩返しができたかなと。


「はい、ちゃんと見送る事ができました」


 晴れ晴れと伝えると、九尾は優しく目尻を下げて笑った。


 徐々に人通りも出て来る朝の時間は忙しない。その中を事務所に向かう九尾の横を晴信は歩いている。心なしかゆっくりとした歩調で。


「大丈夫ですか?」


 この問いかけは既に数回している。普段は飄々としてつかみ所のない人が弱った姿を見せているのがとても心配なのだ。

 けれど彼は「平気です」と言うばかり。それが、少し寂しく感じる。とうてい並べるなんて思ってもいないけれど……例えば転ばないように支える杖くらいにはなりたいのに。


 喧噪を抜け、事務所のあるビルへ。そこでふと、ビルを見上げる人影に気づいた。

 一瞬、タマかなと思った。背格好が似ているから。でも彼ならビルを見上げるなんて事をするだろうか? 意味のない事をするような人じゃないと思う。

 その何者かが不意にこちらへと気づいて顔を向ける。瞬間、生暖かい空気が晴信と九尾を吹き抜けていく。

 顔を庇う、その目の前にあったのは大きい真っ赤な月と、顔の真ん中に赤い目玉一つの異形の存在だった。


「晴信さん!」


 強い声で名が呼ばれ、咄嗟に逃げようとした。だがそれよりも前、瞬間移動とも思える速さで目の前にきたその異形がジッと晴信を見つめる。

 血管を浮き上がらせる濁った白目に真っ赤な目。それが晴信の目を見つめ、目尻を下げてニタリと笑い、次には泡のように消える。


 ハッとした時には周囲に音が戻り、喧噪の只中にいた。


「今のは……」


 禍々しい白昼夢に心臓を握られたような苦しさと不穏を感じて、晴信の表情は一気に曇るのだった。


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