紗英はその後、出版社に中途採用が決まった。しかし、紗英は謎の体調不良が続いていた。紗英自身はただの風邪だろう、と思っていた。だが、匂いに対して敏感になり、ご飯が炊き上がる匂いとかで吐き気を催すようになり、もしかしたら…、と思い産婦人科を受診した。妊娠三ヶ月と言われた。中途採用が決まったばかりなのに、体調不良、しかも、妊娠なんて、どうしよう───。紗英は陽介の連絡先をブロックしてしまっていた上に、家族に相談なんて出来るはずもなく、「お腹に赤ちゃんがいる」ことを素直に喜べずにいた。
診察室を出た紗英は、ぼんやりとした足取りで病院の廊下を歩いていた。
妊娠三ヶ月───その言葉が、頭の中をぐるぐると回っていた。
外に出ると、午後の陽射しがまぶしかった。けれど、心はまるで曇り空のようだった。
公園のベンチに腰を下ろし、バッグから母子手帳を取り出す。まだ手帳の表紙も開いていない。ただの冊子のようなそれが、自分の未来に大きく関わってくるなんて、まだ実感が湧かなかった。
「…どうしよう…」
つぶやく声はかすれていた。
陽介に伝えるべきなのか。でも、彼の連絡先はすべてブロックしてしまっている。怒りと哀しみの末に、自分から切り離したのだ。もう戻るつもりもなかった。なのに、こんな形で彼との「つながり」が、また生まれてしまうなんて…。
「なんで今なの…」
そう言って、紗英は小さく笑った。乾いた、自嘲のような笑みだった。
新しい職場のことも頭をよぎる。やっと決まった出版社。念願だった。小さな会社だけど、編集の仕事に携われるなんて、夢のようだったのに。
「採用されたばっかりで、“妊娠してます”なんて、言えるわけないじゃない…」
スマホを開いても、相談できそうな相手はいなかった。友達にすら、この状況を打ち明ける勇気がなかった。
母の顔がふと浮かんだ。厳しかったけれど、心のどこかではずっと甘えたかった人。
けれど、今の自分の姿を知ったら、母はきっと泣くだろう。怒るだろう。失望するだろう。
「…言えるわけ、ないよ…」
そうつぶやいて、紗英はぐっと唇を噛んだ。
すると、お腹の奥で、ほんのかすかに“何か”を感じた気がした。
もちろん、胎動にはまだ早い。でも、そこに“誰か”がいる。そう思ったら、不思議と胸がじんわりと熱くなった。
「……あなた、今、いるんだね」
指先が無意識にお腹に添えられていた。まだ膨らんでもいない小さな命。それでも確かに、そこにいる。
「ごめんね…ちゃんと喜んであげられなくて」
声が震えた。ぽろぽろと涙がこぼれる。
「でもね、あなたが来てくれたの、きっと意味があるよね…?」
返事はない。でも、風がそっと紗英の髪をなでた。
「…私、がんばってみようかな。ちゃんと、あなたを守れるように」
小さくうなずいて、紗英は母子手帳の表紙をそっと開いた。
そこには、母親の名前を書く欄があった。紗英は一瞬迷ったが、ペンを取り、ゆっくりと書き始めた。
“母の名前:小野 紗英”
それは、自分自身が“母になる”ことを、初めて受け入れた瞬間だった。