紗英は、小さな頃から「良家の娘」として育てられてきた。父は開業医、母は茶道と華道の師範。家の中には古い掛け軸や季節の花が飾られ、食卓にはマナーがつきまとう。姿勢、言葉遣い、立ち居振る舞い…そのすべてが「恥ずかしくないように」と、厳しく教え込まれてきた。
中学三年のとき、彼女は一度だけ、親に反抗したことがあった。
「私、公立の高校に行きたいの。共学がいい。いろんな人と関わってみたい」
そのときの父の表情は、今でも忘れられない。
「共学だ? くだらん。女は品格を守る環境で育てられるべきだ。遊びに行くために高校へ行くんじゃないんだぞ」
母は静かに紅茶を置いて、こう言った。
「紗英、お父様の言う通りよ。女の子には女の子の世界があるの。公立なんて、どんな家庭の子がいるかわからないじゃない。変な影響を受けたらどうするの?」
その一言で、紗英は口をつぐんだ。どれだけ涙をこらえても、自分の意思など通らないことを、あの時、強く思い知らされた。
私立の女子高では、清楚な制服に、毎朝の礼拝、先生の目も行き届いていた。友達はみな、どこかお嬢様然としていて、夢は花嫁、あるいは専業主婦。将来の話は「親が決めた結婚相手」の話題になることも多かった。
——窮屈だった。
本音で笑い合える友達もできず、誰にも言えない孤独が、ずっと胸の中にあった。
大学に進学しても、それは変わらなかった。進学先も親が用意した「伝統ある女子大」。どこかに“違う世界”がある気がして、紗英はたまに、隣の大学の学園祭や、知らない街のカフェに一人で出かけた。そこではじめて見る自由な空気に触れるたびに、胸が少しだけ苦しく、そして温かくなった。
——だから、陽介に惹かれたのかもしれない。
初めて「自分の選択」で恋をした。誰にも決められていない、自分の意思だった。どんなに苦しくても、つらくても、あの感情だけは本物だった。
でも——
「自分で選んだ結果が、これかぁ…」
紗英はひとりごとのように呟いた。あの頃夢見た“自由”は、思っていたよりも不器用で、痛みを伴うものだった。
だけど。
それでも。
この世界のどこかに、心から笑える場所があるのなら。親の望む「正しい道」ではないけれど、自分らしくいられる日々があるのなら。
「…探してみようかな」
小さくつぶやいて、紗英はバッグから履歴書の入った封筒を取り出した。向かうのは、以前ふと見かけた地元の小さな出版社。条件も給与も、大手には遠く及ばない。でも、自分の“言葉”で何かを届けられる気がした。
あの頃の“反抗心”は、もしかしたら、いま“意志”に変わったのかもしれない。