「…お願いです。もう、どこにも行く場所がないんです…」
カウンターの隅、閉店後のガールズバー。紗英はオーナーの前で、声を震わせながら頭を下げた。深夜2時を過ぎた店内には、酔いの残るアルコールの匂いと、女たちの香水がまだほんのりと漂っている。
「本当に、住むところがないの?」
オーナーの男、五十嵐は眉をひそめながらも、どこか興味深そうな目で紗英を見つめていた。
「昨日、アパートのポストに“督促状”って貼られてて…管理会社から電話も来て…。もう今週中には出ていかなきゃいけないって言われて…」
五十嵐はタバコに火をつけて、ふーっと煙を吐いた。
「まぁ、うちで稼いでもらってるしな。1部屋、空いてるマンションあるよ。ワンルームだけど。風呂とトイレついてりゃ十分だろ?」
「…はい。ありがとうございます。本当に…助かります」
紗英はその言葉に泣きそうになった。
「ただし、住まわせるからには…ちゃんと働いてもらうよ。指名ももっと取ってもらわないと。わかってるよね?」
「……はい」
声が震えたが、逆らう余地などなかった。紗英にはもう、“選ぶ”権利がなかったのだ。
その夜、五十嵐に連れられてたどり着いたワンルームマンションは、繁華街から少し外れた雑居ビルの一室だった。コンクリート打ちっぱなしの床に、最低限の家具。ベッドはスプリングが鳴り、カーテンは薄く光を通した。けれど、雨風をしのげるだけで、紗英には十分だった。
部屋に荷物を運び終えると、五十嵐は言った。
「あと、携帯ももう止められたって言ってたよな?」
「…はい。昨日で…電源が入らなくなりました」
「じゃあ、これ使え。仕事用だ。番号も決まってるし、LINEのアカウントも作っといた」
差し出されたのは、古い型のスマートフォンだった。ケースには店のロゴが貼られていた。
「この携帯で、お客とやりとりしてもらうから。営業メッセもちゃんと送ってくれよ? 今日も“ヒマしてます”って送っただけで、2人来たからな」
「……はい」
“自分の声”を失った気がした。もうこの携帯が、唯一の外との繋がり。
数日後。
ワンルームに移ってからというもの、紗英は毎日をただ“耐える”ように過ごしていた。
仕事は深夜2時過ぎまで。帰宅してシャワーを浴びると、もう朝だった。食事はコンビニの菓子パンとインスタントスープ。まともな栄養など摂れていなかった。
お腹に手をあてながら、ふと考える。
「こんなんで…育つのかな、赤ちゃん」
答えは返ってこない。ただ、自分の呼吸だけがやけに大きく響いた。
寝る前には、仕事用の携帯に届くLINE通知が鳴りやまなかった。
《今日ヒマ?》
《指名したいから顔出して》
《昨日のドレス可愛かったね》
画面の文字が、どこか薄汚れて見えた。
“愛”なんてどこにもない。ただの消費と、欲望と、孤独の擦れ合いだった。
ある日、仕事終わりに五十嵐が言った。
「紗英ちゃん、最近ちょっと痩せた? 大丈夫か?」
「…はい、大丈夫です。ちょっと食欲がなくて…」
「無理しないでとは言えないけどさ、体調崩すなよ? …あ、来月からは日中のVIP接客もあるから、頼むよ?」
「……日中、ですか?」
「うん。店とは別の“場所”で会うやつ。ちゃんと金は出すし、お前も安定して稼げるよ」
その“別の場所”がどういう意味なのか、紗英にももう分かっていた。
けれど、断るという選択肢が、心のどこにも残っていなかった。
「…わかりました」
うなずいた瞬間、自分の中で“何か”が崩れ落ちた音がした。