その夜、紗英はいつも通り、ガールズバーで立ちっぱなしの接客をしていた。
身体は重く、足元はふらつき、言葉を交わすたびに頭がくらくらした。
「ちょっと休んでくれば?」
一緒に働く女の子に心配されても、紗英は首を振った。
「……大丈夫。もう少しだけ、頑張るから」
けれど、紗英の身体は、限界をとうに越えていた。
それは、店を閉めて掃除をしていたときだった。
ズキン、と下腹部に激しい痛みが走った。
その場に崩れ落ち、呼吸すらままならなかった。
「紗英!?」
女の子たちが駆け寄ったが、紗英は何も答えられなかった。
ドクンドクンと体内で何かが異常なリズムを刻んでいるのがわかった。
五十嵐が慌てた様子で電話をかけていた。
「……すぐタクシー呼べ! 病院だ!」
視界がぐにゃりと歪んだ。
痛みと恐怖で、涙も声も出なかった。
病院の救急外来に運び込まれたとき、紗英は意識が朦朧としていた。
「妊娠……何ヶ月目ですか?」
白衣の医師が何度も訊ねたが、うまく答えられなかった。
ただ震える唇で、「……五ヶ月、くらい……」と呟くのが精一杯だった。
すぐに緊急処置が始まった。
朦朧とする意識の中、遠くで医師と看護師が慌ただしく動き回る気配がした。
「胎児の心拍、確認できません!」
「……搬送が遅れたな」
誰かが、低く呟いた。
それを聞いた瞬間、紗英の胸に冷たい刃物が突き立ったような痛みが走った。
処置室の天井をぼんやり見つめながら、紗英は虚ろな目で、ただ一つの事実を受け止めた。
お腹の中の赤ちゃんは、もう、いない。
温もりを感じたことさえなかった小さな命が、静かに消えたのだ。
涙は、出なかった。
何もかもが、現実だとは思えなかった。
処置が終わり、小さなベッドに寝かされた紗英の耳に、医師の言葉が遠く響いた。
「妊娠中の過労と、栄養失調が原因だと思われます。……ご家族に連絡できる方は?」
「いません……」
かすれた声で、紗英は答えた。
看護師が一瞬、悲しそうな目をした。
だが、それ以上追及することはなかった。
深夜の病院。
狭い個室で、紗英は独りだった。
小さく膨らんでいたはずの腹をそっと撫でる。
そこにはもう、何もいなかった。
「ごめんね……」
ぽつりと呟いた声が、殺風景な部屋に吸い込まれていった。
その夜、紗英はベッドの中で、声を殺して泣き続けた。
悔しさでも、怒りでもない。
ただ、ひたすらに、寂しかった。
心も、体も、空っぽになった気がした。
数日後、病院を出た紗英には、行くあてもなかった。退院時、財布の中には数百円しか残っていなかった。
「今日中に、部屋も出て行ってくれ」
五十嵐からの一通のメッセージが、紗英にとどめを刺した。
「……そっか」
かすかな声で呟き、紗英は、誰も待っていない街へと一人、歩き出した。
春の冷たい雨が、容赦なく彼女を打った。