「君、大丈夫?」
ちょっとふらついて倒れそうになった時に、優しく手を差しのべてくれた男性、それが雅弘だった。私はこれまでの経験から、もうむやみに差しのべられた手を掴もうとしなかった。しかし、雅弘は優しい口調で、
「そんなに怯えないで…。ご飯、ちゃんと食べてる?」
「…大丈夫ですから!」
意地を張ったその一言が、自分でも思った以上に強く響いたことに、紗英はその直後、胸の奥で小さな後悔を感じていた。
だが、雅弘はそれ以上追いすがることなく、静かに車に乗り込み、エンジン音だけを残してその場を去っていった。高級車の尾灯が、まるで別世界の灯のように遠ざかっていくのを、紗英はただ黙って見送るしかなかった。
帰る場所などない。
ビルの裏にある雑居ビルの事務所兼スタジオに戻っても、そこに「安心」などはない。
あるのは、レッスンと称した搾取と、耐えることしか許されない「撮影」。
スタッフの女が言う。
「はい、今日はこの水着でいこうか。ちょっと派手だけど、キミなら映えるから」
「……これ、ほとんど下着じゃ……」
「何言ってんの。これで仕事取ってる子、いくらでもいるよ?」
そのたびに、自分の価値が「顔と身体」だけになっていくのを感じていた。
夜、部屋に戻っても眠れない。空腹で目が冴える。
レッスン料とローンの返済、交通費も含めると、まともな食事などとても手が出ない。
コンビニでおにぎり一個買うのに、財布の小銭を一枚一枚数えるようになっていた。
ある日、スタジオで一人の“売れっ子”モデルが囁いた。
「ねぇ、紗英ちゃんもやってるって聞いたよ?“オプション”。お金、全然違うからさ」
「……オプション?」
「あれよ、“アフター”。お客さんと飲んで、そのあと……ちょっとサービス」
耳を塞ぎたかった。
でも、現実に背を向ける余裕すら、もうなかった。
その晩、紗英は初めて「指名」を受け、ラウンジのような場所へ呼び出された。
スーツ姿の中年男が、ニヤつきながらグラスを差し出す。
「思ったよりカワイイな。飲める?」
「……はい」
無理やり笑って、グラスに口をつけた。
その瞬間、雅弘の言葉が頭をよぎった。
──「そんなに怯えないで…。ご飯、ちゃんと食べてる?」
「……ッ」
何もかもが崩れていくような音が、心の中で響いた。
けれど、もう引き返せなかった。
数週間後、紗英は過労と栄養失調で倒れた。
連絡も取れないまま、彼女が姿を現さなくなったことで、モデル事務所はローン会社に連絡を入れた。
取り立ての電話は、残された古びたガラケーに何十件も入っていた。
気づけば、身体も、心も、名前さえも、どこかへ消えてしまったような感覚だけが残っていた。
それでも、誰にも助けを求められなかった。
「……助けて」
その一言が、言えなかった。
「大丈夫ですから」
あの時、雅弘に放った言葉が、自分自身の“最後の砦”を壊してしまっていた。