図書館の一室。
「読み聞かせの時間です」と書かれた看板の前に、数人の小さな子どもたちがママやパパに連れられてやってくる。
緊張で喉がカラカラだった。
けれど、絵本を開いて、優しい動物の絵を見た瞬間、少しだけ心がほどけた。
「みんな、こんにちは。今日は『くまくんのおさんぽ』っていうお話を読もうね」
小さな目が、じっと紗英を見つめる。
声は少し震えていたけれど、それでも子どもたちは耳を澄ましてくれていた。
くまくんが森の中で迷子になる場面を読むと、男の子が小さな声でつぶやいた。
「かわいそう……」
思わず、紗英の胸がぎゅっとなった。
「そうだね。だけどね、このあと、くまくん、ちゃんと帰れるんだよ」
その一言が、まるで自分自身に向けた言葉のように響いた。
読み聞かせが終わったあと、スタッフの一人、中年の女性が声をかけてくれた。
「初めてとは思えないくらい、落ち着いた読み方だったわ。優しい声ね。よかったら、これからも定期的にお願いできるかしら」
「……はい。ありがとうございます」
嬉しさと、戸惑いと、少しの誇らしさ。
その全部が混ざったような、久しぶりの「前向きな感情」だった。
帰り道。
ベンチに腰かけて缶コーヒーを飲んでいると、ふと、病院で交わした佐伯さんの言葉がよみがえった。
「やり直せますよ、時間はかかっても」
──その言葉が、ようやく、少しだけ信じられる気がした。
携帯を開いて、メモ帳に一文書く。
「今日は、少しだけ生きていてよかったと思えた」
涙は出なかった。
でも、胸の奥にあった冷たいものが、ほんの少し、溶けた気がした。
数日後。
図書館にまた通い始めた紗英は、偶然出会った中年の男性スタッフ・篠田と挨拶を交わすようになる。
彼は元・小学校教師で、退職後に地域ボランティアとして活動していた。
「お嬢さん、読み方に芯があるね。昔、教え子にもこんな子がいたよ」
「いえ、私は……芯なんてありません。ただ、読んでるだけです」
「そうやって、自分を低く見る癖は、少しずつ手放していくといい」
優しいけれど、まっすぐな言葉だった。
それから数ヶ月。
生活保護を受けながら、週に数回の読み聞かせ。
収入にはならなかったが、心の支えになった。
そしてある日、篠田から思いがけない言葉をもらう。
「紗英さん、今度、地域の子ども向け朗読イベントがあるんだけど、読み手として出てみない?」
驚いた。けれど、少し考えて、首を縦にふった。
「……やってみます」
あの日、くまくんが帰れたように。
私も、少しずつ、帰り道を見つけていけたらいい。
まだ道は続く。
でも今度こそ、自分の足で、歩いていこうと思えた。