手術室の天井が、ぼんやりとにじんで見えた。
麻酔が徐々に効いていくなか、紗英はただ、自分の身体から「命」が取り除かれていくことを感じていた。
──また、失った。
それは、まだ形にもなっていない、小さな命だった。
でも、確かに、彼女の中にいた。
手術は無事に終わった。
だが、心は無事ではいられなかった。
「……紗英さん、目が覚めましたか?」
病室で声をかけてきたのは、ケースワーカーの佐伯だった。
少し白髪交じりの優しい女性。公務員らしからぬ、親しみのある声で話す人だった。
「無理に話さなくていいです。でも、ここからまた、やり直せます。時間はかかっても……絶対に」
紗英は、ゆっくりとまばたきで返事をした。
涙は出なかった。泣く力すら残っていなかった。
退院してからしばらくは、自宅のベッドからほとんど動けなかった。
テレビの音も、スマホの画面も、ただ遠い世界のものにしか思えなかった。
だが、ある朝。
窓の外で、小さな子どもたちの声がした。
黄色い帽子にランドセル。
ぴょんぴょんと跳ねるように横断歩道を渡っていく。
そのとき、胸の奥がずきりと痛んだ。
(私は……何をしていたんだろう)
子どもを失ってなお、自分のことすら守れない。
でも──。
「まだ、終わってないよね……?」
ベッドからゆっくりと起き上がり、カーテンを開けた。
少しだけ、陽が差していた。
再びハローワークに行くには、まだ勇気が足りなかった。
でも、近所の図書館にだけは足を運べるようになった。
ある日、図書館の掲示板で目にとまったのは、ボランティア募集のチラシだった。
「読み聞かせボランティア募集」
小さな子どもたちに、絵本を読む。
かつて、お嬢様育ちとして育った紗英は、誰かに本を読んでもらう時間が大好きだった。
あのときの温もりを、今の自分でも、誰かに渡せるかもしれない──。
「……やってみようかな」
自分の声で誰かが笑うなら、そんな未来があってもいい。
心の奥で、静かに、そう思えた。
──彼女はまだ、傷の中にいた。
けれど、その傷口から、やがて光が差し込む日を、きっと迎えるのだろう。