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第15話  くまくんのとおいみち

数週間後。


絵本コンテストの一次審査通過の通知が、出版社から届いた。


「まさか…」


封筒を開いた手が、震えた。


本文にはこうあった。


> 『くまくんのとおいみち』は、言葉の選び方や表現がやさしく、読後感もあたたかい作品でした。二次審査に進みます。ご提出いただいた原稿に関して、編集担当よりご連絡させていただきます。


紗英は何度も文面を読み返した。初めて、自分の書いた言葉が「誰かに届いた」気がした。


涙がぽろぽろと頬を伝った。あの夜、一人でアパートの小さな机に向かって、震える手で書いた物語。誰にも読まれないかもしれないと思いながら、それでも心の奥から溢れ出る言葉を紡いだあの時間が、無駄ではなかったのだ。




それから、二次審査の面談日。


出版社の編集室。緊張して硬くなった紗英を迎えてくれたのは、優しい目元の女性編集者だった。


「紗英さん、ご応募ありがとうございます。正直、この物語…読みながら涙が出ました。くまくんが迷子になりながらも、誰かの声で少しずつ救われていく姿が、とてもリアルで」


紗英は、黙って聞いていた。


「特に印象的だったのは、くまくんが森で出会う動物たちの言葉です。『大丈夫だよ、迷子になったって恥ずかしくない』『みんな、時々道を間違えるんだから』…こういう台詞は、体験した人にしか書けないと思うんです」


編集者は原稿をめくりながら続けた。


「紗英さん…ご自身の経験が、重なっていたりしますか?」


一瞬だけ迷ったが、紗英はうなずいた。


「少し、いえ…たくさん、重ねてます。過去に、たくさん間違えました。誰かを傷つけたり、自分を大切にできなかったり。でも、その中でも…やさしい声や、救いの手に、助けられてきました」


「家族との関係で、長い間悩んでいて。自分はダメな人間だと思い込んで生きてきました。でも最近、少しずつ…自分の気持ちと向き合えるようになって」


編集者は微笑んだ。


「だから、くまくんの台詞がこんなにもまっすぐなんですね。───"遠回りしても、だれかが待ってくれてる気がする"って。この一行に、紗英さんの希望が込められているのが伝わってきます」




数ヶ月後。


絵本『くまくんのとおいみち』が、地域の小さな出版社から出版されることになった。


初版は千部。地方の書店と図書館、そして読み聞かせイベントを中心に配布されるという。


紗英の手元に届いた見本の絵本を開いたとき、心が震えた。自分の言葉が、美しい絵と一緒にページに並んでいる。表紙のくまくんは、森の中で立ち止まって空を見上げていた。迷子だけれど、諦めていない表情だった。


「私も、諦めなくてよかった」


紗英は絵本を胸に抱きしめた。




出版記念の朗読イベントで、再び舞台に立った紗英は、今度は迷いがなかった。


会場には、子どもたちとその家族、そして地域の読書愛好家たちが集まっていた。前回のように足が震えることはなく、自然に微笑みながらマイクの前に立った。


「みなさん、こんにちは。今日は『くまくんのとおいみち』を聞きに来てくださって、ありがとうございます」


子どもたちの前で、穏やかに、丁寧に読んだ。一文一文に心を込めて、くまくんの気持ちを伝えるように。


「くまくんは森で迷子になってしまいました。どの道を歩いても、おうちが見つかりません…」


会場の空気が、静かに集中していくのを感じた。子どもたちの目が、真剣に紗英を見つめている。


朗読が終わった後、小さな男の子が駆け寄ってきて、紗英に言った。


「くまくん、がんばってて、ぼくもがんばろうって思った」


──その言葉が、何よりの贈り物だった。


さらに、眼鏡をかけた女性が近づいてきた。


「すみません、私、小学校で図書館司書をしているんですが…この本、学校にも置かせていただけませんか?きっと、迷子になった気持ちの子どもたちの心に届くと思うんです」


紗英の目に、再び涙がにじんだ。自分の物語が、もっと多くの人に読まれるかもしれない。




イベント後。


会場の片隅で、篠田が拍手していた。


「よくやったな、紗英さん」


「…ありがとうございます。私、やっと…ちょっとだけ、自分のことが好きになれた気がします」


篠田はうなずいた。


「自分の人生を言葉にして、人に届けることができた人間は、もう迷子じゃないよ」


「でも、」

篠田は続けた。

「これがゴールじゃない。今度は、紗英さんの次の物語を待ってる人がいる。書き続けることで、もっと自分と向き合えるはずだ」


紗英は深くうなずいた。そうだ、これは始まりなのだ。



夜の帰り道、紗英はスマホを開いた。


連絡先リストに「母」と書かれた名前を見つめる。


今日のイベントのことを話したい気持ちが、ふと心によぎった。母も、昔は紗英に絵本を読んでくれていた。『くまくんのとおいみち』を、母はどう思うだろうか。


でも、まだ勇気が出ない。


…もう少し、もう少し時間がかかるかもしれない。

でも、いつか自分の言葉で、過去も、家族も、許せるようになれたら。


そんなことを思いながら、紗英はゆっくり歩いた。


街灯に照らされた歩道を歩きながら、ふと立ち止まった。コンビニの前で、迷子になったらしい小さな女の子が泣いている。店員さんが優しく声をかけているところだった。


紗英は女の子のそばにしゃがんで、静かに言った。


「大丈夫だよ。迷子になったって、恥ずかしくないからね。きっと、お家の人が探してる」


女の子は涙を拭いて、紗英を見上げた。その瞬間、紗英は気づいた。自分の言葉が、本当に誰かを支えることができるのだと。


程なくして、女の子の母親が駆けつけてきた。お礼を言われながら、紗英は穏やかに微笑んだ。


きっと人生は、「とおいみち」だけど───歩いていけば、どこかに着く。


そして、道に迷った人がいたら、そっと手を差し伸べることができる。


紗英は夜空を見上げた。明日からまた、新しい物語を書こう。今度は、道に迷った大人のお話かもしれない。それとも、勇気を出して家族に電話をかける女性の話かもしれない。


どんな物語でも、きっと誰かの心に届くはずだ。


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