絵本の出版から半年が過ぎ、紗英は地元の図書館で定期的に絵本の読み聞かせボランティアをするようになっていた。最初は出版社の紹介で呼ばれた一回きりのイベントのつもりだったが、参加した子どもたちの笑顔が忘れられなかった。
「また読んでほしい!」
そんな言葉がうれしくて、紗英は毎週のように図書館に足を運んでいた。
図書館の児童コーナーには、いつも決まった顔ぶれの子どもたちが集まっていた。人見知りで最初は隅っこに座っていた男の子は、今では一番前の席で目を輝かせて聞いている。車椅子の女の子は、いつも友達と手を繋いで一緒に来る。みんな、それぞれの事情を抱えながらも、物語の時間だけは同じ世界を共有していた。
紗英にとって、この時間は特別だった。子どもたちの純粋な反応が、執筆への意欲を呼び起こしてくれる。彼らの笑い声や質問、時には涙さえもが、新しい物語の種になっていく。
ある日、読み聞かせが終わった後の帰り道。小さな女の子が紗英の袖をつかんだ。
「わたし、ママがいないの。でも、くまくん、がんばってたから、わたしもがんばるの」
紗英は、膝をついて目線を合わせた。
「そっか…。がんばってるね。きっと、くまくんもすごく喜んでる」
「本当?」
女の子の瞳が輝いた。
「わたし、くまくんみたいになりたいの。やさしくて、つよくて」
「もうなってるよ」
紗英は優しく微笑んだ。
「あなたはもう、とても勇敢で優しい子だもの」
女の子がにっこり笑って駆けていくのを見送って、紗英はふっと空を見上げた。夕焼けが空を染めている。
「ありがとう、くまくん。あなたのおかげで、また前に進める気がするよ」
その夜、アパート。
生活保護の受給はまだ続いていたが、紗英は少しずつ文章の仕事も請け始めていた。児童文学誌に短いエッセイを寄稿したり、絵本コラムをブログで書いたり。出版社の編集者からも「次回作、考えてますか?」と連絡が来るようになっていた。
机の上には、子どもたちからの手紙が積まれていた。クレヨンで描かれたくまの絵、拙い文字で書かれた感想。それらを眺めながら、紗英は次の物語を考える。
今度は、「くまくんの帰りみち」にしようか──そう思いながら、紗英はパソコンに向かう。でも、その前に。手紙に返事を書こう。一通一通、丁寧に。
その頃。
母からの手紙が届いた。
それは、もう数ヶ月も前に紗英が出した手紙への返事だった。ぎこちない字でこう綴られていた。
> あなたがどんな道を歩いていても、母はあなたの味方でいたいと思う。
>
> 絵本、図書館で借りて読みました。
> とても素敵でした。
> あなたが書いたと思うと、誇らしくて涙が出ました。
>
> 今度、よかったら会いませんか。
> 急がなくても構いません。
> あなたのペースで。
紗英は、涙が止まらなかった。どれだけ時間がかかっても、自分の言葉は誰かに届く──その確信を胸に、またひと文字ずつ言葉を紡いでいく。
電話をかけようか、それとも手紙で返事を書こうか。紗英は少し迷ったが、まずは短い手紙から始めることにした。
翌週の読み聞かせの日。
いつものように子どもたちが集まってくる中、一人の男性が後ろの方に座っているのが見えた。三十代半ばくらいだろうか。読み聞かせが終わると、その人が近づいてきた。
「すみません、突然で申し訳ないのですが…僕、出版社で編集をしているんです。今日、息子と一緒に聞かせていただいて、とても感動しました」
彼は名刺を差し出した。
「もしよろしければ、一度お話をお聞かせください。新しいシリーズを企画しているんです」
新しい扉が、また一つ開こうとしていた。
そしてまた一歩。
紗英の物語は、終わらない。
「遠い道」は、まだまだ続いていく。
けれど今は、しっかりと足元を見つめて歩いている。
過去も痛みも、すべて物語に変えて。
そして今度は、母との物語も、きっと新しく始まる。
子どもたちとの物語も、編集者との物語も。
一つ一つの出会いが、新しいページを開いていく。
春が終わり、夏が始まろうとしている。
紗英の心にも、新しい季節が訪れていた。