風の強い春の日。桜はもう散り始めていたが、街路樹の隙間からこぼれる花びらが、ふとした瞬間に紗英の頬に触れた。
その日、紗英は近所の図書館で開かれる「朗読とコーヒーの午後」という小さなイベントに、なんとなく足を運んでいた。
「…失礼、ここ、空いてますか?」
声をかけてきたのは、年齢も近そうな男性だった。黒縁のメガネに、白シャツ。派手さはないが、整った物腰と柔らかい笑みが印象的だった。
「あ、どうぞ」
そう答えると、彼は丁寧に頭を下げ、隣に腰を下ろした。
イベントが終わった後、偶然にも出口でまた顔を合わせた。
「朗読、よかったですね。あの宮沢賢治の『やまなし』、あんなに優しい声で読まれると、なんだか世界が澄んで感じました」
紗英がぽつりと漏らすと、彼はふっと笑った。
「僕も同じこと、思ってました。…あ、僕、
「紗英です。…あの、名前だけで」
名前だけ。今の自分をまだすべては語れない。けれど、それでもいいと思わせてくれる不思議な安心感が、彼からは伝わってきた。
「じゃあ…紗英さん。よかったら、またこのイベント、一緒にどうですか?」
それが始まりだった。
彼は無理に距離を詰めようとはしなかった。紗英が話したい時には聞き、沈黙したい時にはただ隣にいてくれた。
季節が移ろい、コーヒーの温度がホットからアイスに変わるころ、紗英はようやく、自分の過去を少しずつ話せるようになっていた。
「…私、いろんなことがあって、もう誰かを信じるのが怖かった。でも…あなたと話してると、安心するの。優しさを装った嘘じゃなくて、本当に…」
「僕も。紗英さんが、今ここにいることが、嬉しい。過去なんて、変えられないけど…これからの時間なら、一緒に描けるかもしれないって、思ってます」
紗英の目に、涙が浮かんだ。それは、悲しみでも絶望でもない。新しい春の光のように、優しく温かい、再生の兆しだった。
岸本航平と再会したのは、三度目の朗読会だった。
それまでは軽く挨拶を交わすだけだったが、その日は紗英の隣に自然と座り、始まるまでのあいだ、静かに会話を交わした。
「朗読って、目に見えない優しさが、音になって届く感じがしますね」
その言葉に、紗英はゆっくりと頷いた。
「…そうですね。音に…心が洗われる気がします」
彼の話すテンポは穏やかで、言葉を選ぶような間があった。けれどその“間”が、せかせかした今までの人生とまるで違って、紗英には心地よかった。
その日の帰り、彼は歩道でふと立ち止まり、花壇に咲いたパンジーを見つめていた。
「花って、気づく人にだけ、咲いてるような気がするんですよね」
その言葉が、なぜか紗英の胸の奥に、そっと差し込まれた。
──この人は、見てくれてる。
表面じゃなくて、何かもっと…深いところを。
それからというもの、彼と会う日が近づくと、胸が小さくざわつくようになった。
朗読会のある週は、服を選ぶ時間が長くなった。
図書館の窓辺で並んで本を読むとき、時折指先が触れると、どきりとした。
会いたいと思う。でも、会ってしまえば平静を保てなくなる。
それが「恋」なのだと、紗英はすぐには認められなかった。
ある日、朗読会が終わった後の喫茶店で、航平が言った。
「今日、紗英さんと同じページを読んでいたとき、不思議と時間が止まった気がしました」
心臓が、ひときわ大きく跳ねた。
そして、紗英は気づいてしまった。
──ああ、私、この人のこと、好きになってるんだ。
それは激しく燃える恋ではなかった。
けれど、確かに日だまりのように、胸の奥に根を張り、じんわりと暖かくなっていく。
大切に、大切に、もう二度と壊さないように。
それが、紗英の「新しい恋の芽生え」だった。