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第19話  やさしさ

あの日から、紗英は少しずつ変わっていった。

夜に目を閉じると、ふと航平の言葉が頭をよぎる。

「花って、気づく人にだけ、咲いてるような気がするんですよね」

彼の声が、記憶の中で優しく再生された。


朗読会のあと、ふたりでカフェに立ち寄るのが習慣になった。

言葉は多くない。でも、沈黙が苦ではなかった。


「…紗英さんは、苦手な季節ってありますか?」


ふとした会話の中、航平がたずねた。


「うーん、夏…かな。なんか、全部が明るすぎて、自分だけ影みたいに感じるときがあるから」


紗英は、笑うような、俯くような表情で答えた。

航平は、少しだけ視線を落とし、ゆっくりと、


「僕は、そんな影の部分こそ、人を魅力的にすると思う」


その一言に、紗英の胸がふっと緩んだ。

涙がにじむのを堪えながら、彼女はそっと微笑んだ。



季節が変わり、秋の風が冷たさを増し始めた頃。

その日は、図書館の裏手にある小さな公園で、落ち葉がさくさくと音を立てていた。


紗英がベンチに座っていると、航平がコーヒーを片手にやってきた。

紙カップをそっと差し出しながら言う。


「砂糖とミルク、少し多め。前に言ってたから」


「…覚えててくれたんですね」


そう言いながら、紗英は胸の奥が温かくなるのを感じた。

もう、こんな風に誰かに大切にされる日なんて来ないと思っていたのに。


航平は、ポケットから小さな封筒を取り出した。

「これ、よかったら…」


中には、手書きのカードが一枚。

《朗読会で紗英さんと出会えたことに、心から感謝しています。これからも、もっと紗英さんのことを知っていけたら嬉しいです。》


紗英は、それを読んでから、ゆっくり顔を上げた。


「それって…、そういう意味ですか?」


航平は、まっすぐな眼差しで頷いた。


「はい。紗英さんがよければ、少しずつでいいから、僕のそばにいてくれませんか?」


紗英の目から、ぽろりと涙がこぼれた。


「私…、ずっと、人に大切にされることに慣れてなくて…。でも、あなたのそばなら、きっと、少しずつ、信じられるような気がします」


ふたりの間に、柔らかな沈黙が落ちた。

だけどそれは、もう孤独の沈黙ではなかった。


秋風が、カップのコーヒーの湯気をそっと揺らしていた。

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