あの日から、紗英は少しずつ変わっていった。
夜に目を閉じると、ふと航平の言葉が頭をよぎる。
「花って、気づく人にだけ、咲いてるような気がするんですよね」
彼の声が、記憶の中で優しく再生された。
朗読会のあと、ふたりでカフェに立ち寄るのが習慣になった。
言葉は多くない。でも、沈黙が苦ではなかった。
「…紗英さんは、苦手な季節ってありますか?」
ふとした会話の中、航平がたずねた。
「うーん、夏…かな。なんか、全部が明るすぎて、自分だけ影みたいに感じるときがあるから」
紗英は、笑うような、俯くような表情で答えた。
航平は、少しだけ視線を落とし、ゆっくりと、
「僕は、そんな影の部分こそ、人を魅力的にすると思う」
その一言に、紗英の胸がふっと緩んだ。
涙がにじむのを堪えながら、彼女はそっと微笑んだ。
季節が変わり、秋の風が冷たさを増し始めた頃。
その日は、図書館の裏手にある小さな公園で、落ち葉がさくさくと音を立てていた。
紗英がベンチに座っていると、航平がコーヒーを片手にやってきた。
紙カップをそっと差し出しながら言う。
「砂糖とミルク、少し多め。前に言ってたから」
「…覚えててくれたんですね」
そう言いながら、紗英は胸の奥が温かくなるのを感じた。
もう、こんな風に誰かに大切にされる日なんて来ないと思っていたのに。
航平は、ポケットから小さな封筒を取り出した。
「これ、よかったら…」
中には、手書きのカードが一枚。
《朗読会で紗英さんと出会えたことに、心から感謝しています。これからも、もっと紗英さんのことを知っていけたら嬉しいです。》
紗英は、それを読んでから、ゆっくり顔を上げた。
「それって…、そういう意味ですか?」
航平は、まっすぐな眼差しで頷いた。
「はい。紗英さんがよければ、少しずつでいいから、僕のそばにいてくれませんか?」
紗英の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「私…、ずっと、人に大切にされることに慣れてなくて…。でも、あなたのそばなら、きっと、少しずつ、信じられるような気がします」
ふたりの間に、柔らかな沈黙が落ちた。
だけどそれは、もう孤独の沈黙ではなかった。
秋風が、カップのコーヒーの湯気をそっと揺らしていた。