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第34話  種まきの季節

図書室が正式に地域に開館してから数ヶ月。紗英と航平は、障がいや心に傷を抱えた子どもたちに向けて、週に一度の「おはなし会」を開催していた。手作りの絵本、ぬいぐるみ、読み聞かせに合わせた音楽──。子どもたちの笑顔を見るたびに、紗英の心の奥に、少しずつ灯がともっていく。


ある日、イベント後にひとりの母親が紗英に声をかけた。


「うちの子、最初はすごく緊張してたんです。でも、くまくんの本を読んでから、表情が柔らかくなって。ありがとう…本当にありがとう」


その言葉が、紗英の胸を震わせた。


「もっと、できることがあるかもしれない。

物語だけじゃなく、子どもたちと過ごす時間を、もっと日常の中に作れたら…」


航平も頷いた。


「焦らず、一歩ずつでもいい。まずは“居場所”を作ろう。図書室の延長として、週末に『オープンスペース』を始めるのはどう?」


「いいね。“やさしさのたまりば”って名前にしようか」




二人は地域の福祉課や教育委員会に相談し、地元のボランティアとも協力しながら、図書室の一角に「子どものためのオープンスペース」を設ける。読み聞かせに加えて、折り紙や工作、簡単な軽食が提供される週末の居場所づくりだ。


通ってくる子どもたちの中には、不登校の子や発達障がいの傾向がある子もいた。けれど、くまくんの物語や紗英の優しい声に安心し、少しずつ笑顔を見せるようになっていく。


夢への道がつながっていく。


こうした活動が1年、2年と続く中で、少しずつ支援者が現れ、自治体との関係も深まっていく。そして、ようやく「やさしさのはじまりハウス(仮称)」の構想が現実味を帯びてきた──。




図書室が開館してから、1年半が過ぎた頃。


季節は春。柔らかな陽射しが窓から差し込み、絵本の表紙に虹のような光を落としている。子どもたちの笑い声と、ページをめくる音。それが紗英の日々の活力だった。


「『くまくんのとおいみち』、このあいだ読んでもらったやつだ!」

 と、小学生の男の子が嬉しそうに本棚から取り出すと、紗英は思わず笑みをこぼした。


「覚えててくれたんだね。今日は『くまくんのかえりみち』もあるよ。読んでみる?」


「うん!」


子どもたちとのふれあいは、紗英にとって癒しであり、同時に思いの種を育てる時間だった。





図書室の一角には、小さな意見ノートが置かれている。利用者が自由にメッセージを書き込めるようにしてあった。ある日、そのノートの中に、こんな一文があった。


> 「うちの子は自閉症で、普通の図書館では騒いでしまうから連れて行けなかった。でもここでは安心して一緒に過ごせます。ありがとうございます」




紗英はその言葉を何度も読み返した。


「私たちに、もっとできることがある気がする…」


その晩、航平とふたりで小さなミーティングを開いた。テーブルの上には、利用者の声を集めたメモ帳と、開館当初からつけていた活動日誌。


「たとえば、絵本の読み聞かせを定期的にしたり、障がいのある子のためのフリースペースを用意したり…そんな活動を、ここから少しずつ育てていけたら」


航平は頷きながら、言った。


「“やさしさのはじまりハウス”、名前だけはあのとき決めたけど、本当に“はじまり”は今なんだろうね」




まず始めたのは、月に一度の「絵本のひろば」イベントだった。


読み聞かせのあとには、自由に絵を描いたり、声を出して遊んだりできる時間を設けた。聴覚過敏の子にはノイズキャンセリングのヘッドホンを、車椅子の子にはスロープ付きの入り口を。


ひとつひとつの小さな配慮を積み重ねながら、紗英たちは“理想”を少しずつ“現実”に近づけていった。





イベント終了後、航平がぽつりとつぶやいた。


「いつか、この活動をもっと広げられたらいいね。子どもだけじゃなく、大人も、家族も、安心できる場所に」


紗英は静かに頷いた。


「その“いつか”を、少しずつ近づけていこう。焦らず、でも止まらずに」


その言葉は、図書室に差し込む春の光のように、温かく、やさしく、これからの未来を照らしていた。

開館した図書室の片隅、夕日が差し込む柔らかな光のなかで、紗英と航平は向かい合って話していた。テーブルの上には、施設設立に向けた資料と、たくさんのメモが広がっている。




「やさしさのはじまりハウス、って名前も悪くないけど……」

紗英が少し照れくさそうに言った。

「でも、やっぱりちょっと長いよね。子どもたちにも覚えやすい名前にしたいなって思って」


航平はうなずき、笑った。

「うん。でも、名前って本当に大事だよね。僕たちの想いが、ちゃんと伝わるものにしたい」


ふたりはしばらく黙って考えていたが、紗英がふと、スケッチブックに書いていた言葉を見つめた。そこには、紗英が思いつきで書いた「悠愛園」の三文字。


「これ、どうかな……“悠愛園ゆうあいえん”。“悠”は、ゆったり、のびのびって意味がある。“愛”は、もちろん、子どもたちへの愛情」

紗英は静かに語るように言った。

「焦らず、比べず、自分のペースで育っていい。そんな場所にしたいなって」


航平は目を細め、しばらくその言葉をかみしめてから、言った。

「……すごくいいと思う。“悠愛園”、きっとたくさんの子どもたちにとって、心の居場所になるね」


「うん。私たち自身が、そういう場所を欲しかったから……」

紗英は遠くを見つめながら、過去を思い出していた。孤独や不安の中で、それでも絵本に救われてきたあの頃。今度は、自分たちが誰かの“灯り”になりたい。


そしてその日、ふたりは正式に、未来の施設の名前を「悠愛園」と決めた。


テーブルの真ん中に置かれた紙に、その名前を丁寧に書き込む紗英。

それを見つめながら、航平は穏やかに言った。

「ここからが、ほんとのスタートだね」


窓の外、夕暮れの空に、希望の光が差していた。


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