「拳児くん……だったね。あらためて礼をさせてほしい。孫の伊織の命をよくぞイレギュラーから助けてくれた。そのことに関しては感謝のしようがない」
僕と伊織さんが茶釜を挟んだ対面に正座するなり、成瀬会長は背筋を伸ばしたまま深々と頭を下げた。
ギョッとした僕は慌てて首を左右に振る。
「そんな、やめてください。僕としては当たり前のことをしただけですから」
謙遜ではない。
あのときの僕は本当に損得なしで成瀬さんを助けようと思ったのだ。
ただし最初はイレギュラーを倒すつもりはなかった。
自分を囮にして成瀬さんを避難させるつもりだったのだが、結果的に僕は【聖気練武】の〈発勁〉なる技を使ってイレギュラーを倒したらしい。
どうして自分のことなのに「らしい」という言葉を使うのかというと、そのときの記憶が頭の中からすっぽりと消えていたからだ。
成瀬さんから〈発勁〉の使い方を教えてもらい、右手にその〈発勁〉の発動条件を満たしてイレギュラーに猛進した記憶はある。
問題なのはそのあとだった。
イレギュラーに渾身の突きを放ったあと、いきなり僕の視界は電灯をオフにしたようにブラックアウトしたのである。
そして夢の中でケンと銀髪の男との尋常ではない闘いを間近で見たあと、目の前が真っ白な閃光に包まれて、気がつけば先ほどの医務室で寝ていたというわけだ。
「うむ、そのことなのだが」
頭を上げた成瀬会長は、僕に対して射貫くような視線を向けてくる。
怒気や殺意を含んだ眼差しではない。
僕に対して何か疑問があるような目つきだ。
「事前に君が正規の探索者ではなく、無数にある探索斡旋所の1つに登録した「身分証なしの荷物持ち」ということは簡単に調べられた。むろん、本来ならばそのことに関してわしからとやかく言うことはない。この迷宮内は日本国の中でも今や特区に指定されている場所だ。地上世界とは職業選択に際しても一線を画し、どんな事情であれ個人に対して詮索することもあまりない」
とはいえ、と成瀬会長は強く言葉を区切った。
「さすがに君の活躍はあまりにも異常だった。わしの迷宮協会が定めた上位ランクの探索者でさえ油断できないイレギュラーに対して、探索者よりもはるかに戦闘技術と実戦経験が劣るただの荷物持ちが単独で闘って勝てる道理などはない。たとえこの迷宮内が地上世界には存在しない魔物が蔓延っている空想じみた地下世界であったとしてもだ」
僕はごくりと生唾を飲み込んだ。
成瀬会長からは先ほどよりも何十倍も強い威圧感が放たれてくる。
ただ見つめられているだけなのに、チリチリと肌が焼けつくような錯覚に陥ってしまう。
さすがはダンジョン協会のトップである。
やっぱり強さのレベルが他の探索者よりも桁違いだ。
僕みたいな荷物持ちでも強制的に実感してしまうほどの破格の強さ。
そんな成瀬会長は静かに言葉を続ける。
「そこでわしは君のことを他の者に頼んでもっと詳しく調べてもらった」
「ぼ、僕のことをですか……でも、どうやって?」
「わしはこれでも迷宮協会の会長だ。迷宮協会は地上世界との橋渡し的な役割も担っておるから、自然と地上世界のあらゆる行政機関の上層部と繋がりが深くなる。そこで警察関係者を中心に君のことを調べてもらった。伊織の配信映像を通じて君の顔や身体的特徴も提示しやすかったしな」
警察というのは地上世界にある、国家の治安を維持する行政機関だったはず。
確か犯罪者を取り締まる一方、個人や組織の情報を調べることにも秀でている組織だと聞いたことがある。
「何か僕のことについてわかったんですか?」
このとき、僕は思わず成瀬会長に身を乗り出した。
自分自身でさえわからない、僕個人の詳しい情報が聞けるかもしれないと思ったからだ。
「ああ、君が昏睡していた2日の間でわかったことがある。それは君がこの世に存在していない、厳密には存在していた形跡すらない謎の人間ということがな」
僕は言葉が出なかった。
この世に
「出生届や戸籍謄本はもちろんのこと、住民票や犯罪履歴にいたるまで調べに調べてもらったが、君の名前と顔が一致する人物は該当なしだという。そこで君が本当に人間かどうかをここで調べさせてもらった」
「聞きました。僕が眠っている間に色んな検査をしたとか……でも、僕はれっきとした人間です。魔物じゃありません」
「うむ、それは検査結果を見ればわかった。だが、それはあくまでも表向きのことで実を言うと検査などしなくても君が人間であるという証があったのだが……まあ、念には念を入れてな」
そう言うと成瀬会長は、自身の右手を顔前まで持ってくる。
ズズズズズズズ…………
直後、僕は無意識に成瀬会長の右手を凝視した。
成瀬会長の右手が徐々に黄金色の光に包まれていく。
「今の君にも見えるのだろう? わしの右手を包む【聖気練武】を発現した証である黄金色の〈聖気〉の光が」
「見えます。はっきりと」
そう告げた僕に成瀬会長は【聖気練武】のことを端的に教えてくれた。
〈
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などである。
そしてこれらの技は普通の使い方とは別に様々な応用技があるらしい。
例を挙げると〈周天〉はそのまま使うと肉体を覆う〈聖気〉の量を増幅させるだけだが、その状態で無機物に触れて意識を通わせると無機物にも〈聖気〉の力が伝わるという。
僕は成瀬会長から視線を外すと、自分の右手を見つめながら〈聖気〉を集中させた。
成瀬会長と同じく、黄金色の〈聖気〉が右手を覆い尽くしていく。
「それこそ君が人間である証拠だ。この【聖気練武】は人間のみが大昔から持っていた超常的な力。時代が経つにつれて徐々に使い手が減っていったが、それでも魔物には決して使えない力だ。ゆえに君が魔物であるということはない……だからといって、君が普通の人間だという証拠もない」
成瀬会長は僕をキッと睨みつけてくる。
「なので君自身に問わせてもらう。君は本当に自分が何者であるかの記憶はないのか? どこで生まれ、どうやって育ち、誰から【聖気練武】を習ったのかを」
しばしの沈黙のあと、僕は「本当にないんです」と答えた。
「本当に僕には半年以上前の記憶がありません。今まではただパーティーの荷物持ちとして日々を生きていくために必死でしたが、そのパーティーからも追い出されて僕には何もなくなりました」
僕は成瀬会長と成瀬さんの視線を受けながら、ずっと心の中に押し込んでいた自分の願望を吐き出した。
「だからこそ、僕は知りたい。一体僕はどこで生まれ、どうやって育ち、なぜダンジョンの中で記憶を失った状態で倒れていたのか。僕は知りたいんです」
そこまで吐露したとき、隣にいた成瀬さんが「お爺さま」と口を開いた。
成瀬会長は僕から成瀬さんに視線を移す。
「何かわたしたちに協力できることはないんでしょうか? 確かに拳児くんは身元不明な謎の人物です。でも、こうして接していてわかる。彼は決して悪い人間ではありません。それどころか、自分の命を顧みずイレギュラーに立ち向かうほどの仁と義の精神を持っています。それに彼は【聖気練武】を使える。きっと記憶をなくす以前、ひとかどの使い手に師事したに違いありません」
成瀬さんの言葉を聞いて、成瀬会長の右手から黄金色の光が消えていった。
自身で〈聖気〉の力を解いたのだろう。
そんな成瀬会長を見て、僕も自分の右手を覆っていた〈聖気〉を解いた。
感覚的には目の前の蝋燭の炎を息で吹き消す感じである。
「上位探索者は常に危険と隣り合わせだ。たとえ【聖気練武】の使い手であろうとも、探索中の不慮の事故やイレギュラーに襲われて命を絶たれる者も少なくない。もしかすると、半年以上前に行方不明か死亡した上位探索者の中に彼の師に当たる人間がいたのかもしれん」
成瀬会長は再び僕に顔を戻した。
「拳児くん、君のことはひとまずわしが引き続き調べてみよう。伊織を助けてくれた礼の意味も込めてな」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
僕はパッと表情を明らめ、成瀬会長に深々と頭を下げる。
「それは構わん。だが、それまで君はどうする?」
顔を上げた僕は困ってしまった。
今後のことなど考えていなかったからだ。
「その顔だと考えていないようだな。無理もない。記憶をなくした状態で何もわからぬまま荷物持ちとして懸命に働き、その仕えていたパーティーからも不当な理由で追い出されたとあらば将来に関しては不安しかなかろう。身元を保証するものがなければまともな職にも就けないしな」
「……そうですね」
僕はあらためて自分の今後に一抹の不安を覚えた。
すると成瀬会長はニヤリと笑って「そこでこちらから1つ提案させてもらいたいのだが」と言った。
「拳児くん、探索者試験を受けてみないかね?」