午後1時00分。
15分前までは中庭のあちこちに散らばっていた探索者志望者たちは、全員が全員とも顔を強張らせながら中庭の中央に集まっていた。
もちろん、その中には僕もいる。
「時間になりました」
探索志望者たちが固唾を飲んでいると、今年の試験担当官の人が自分の腕時計を見ながら言った。
「最後に確認しておきますが、試験を受けるのが怖くなって辞退したい人はいませんね……よろしい、ではこれより第26期・探索者試験を始めます」
そう言うと担当官――三木原飛呂彦さんは小さく頭を下げた。
「私の名前は三木原飛呂彦。今回の試験の担当官を務めさせていただきます。どうぞ、よろしく」
僕を含めた約100近い人間が生唾を飲み込む。
三木原さんは今年の探索者試験の担当官であり、今は協会本部に勤める研究職員だが元はA級の探索者だという。
そしてそのことは僕を除く全員が知っていたらしく、試験開始前の探索志望者たちの会話から現役時代の三木原さんが有名だったかを知ることができた。
何でも三木原さんは「
斥候とはダンジョン内を探索する際に重要な役目を担う職業の総称だ。
パーティーから一時的に離脱し、これからする探索ルートの敵情視察や地形の状況を把握してパーティーの生存率や採取率を大幅に向上させる役目を担う。
だが、言うは易し行うは難し(この言葉は亮二さんから習った)という言葉があるように斥候の技術は一朝一夕で身につくものではない。
しかも斥候のセンスは個人の能力に大きく依存しているため、経験が乏しいB級以下の探索者パーティーには専門の斥候職の人間が不在している。
現に僕がいた【疾風迅雷】にも斥候職の人間はおらず、こういう場合は全員が斥候の役目を分散させて探索するのが一般的だ。
三木原さんはそんな斥候職の分野で活躍し、A級以上の複数の探索者パーティーが協力して大量の魔物を討伐したり、危険な場所で稀少なアイテムを採取する【
けれども、三木原さんはとある稀少アイテムが発見されたことで探索者を突如として引退。
同業者たちに惜しまれながらも今はこのダンジョン協会本部の研究職に転職し、その稀少アイテムが世間で実用化されるように研究に明け暮れていると聞いた。
そんなことを考えていると、三木原さんは僕たちを見回して微笑む。
おっと、三木原さんのことを考えるはここまでにしよう。
なし崩し的に受けることになってしまった探索者試験だが、最終的に自分で試験を受ける判断をしたのだから仕方がない。
試験料の10万円を免除してくれた成瀬会長のこともあるし、この試験に合格することができれば僕は荷物持ち以外にも真っ当な職を手に入れられる。
だとしたら、あとは試験に合格するように死力を尽くすのみ。
僕はちらりと中庭の片隅に目をやる。
先ほどまでいた大木の横には、「頑張って」と励ましてくれているように成瀬さんが両手の拳を握っている。
はい、頑張ります。
僕は成瀬さんに力強くうなずくと、グッと右手の拳を固く握った。
「さて、今期の試験内容ですが――」
そうして三木原さんの口から今期の試験内容が発表されようとした。
「ん?」
三木原さんは僕たちから視線を外すと、キョロキョロと辺りを見回す。
「今、何か妙な物音がしませんでしたか?」
三木原さんの突然の問いに誰もが答えられずにいた。
僕も無言で聞き耳を立てる。
妙な物音などどこからも聞こえてこない。
「いや、確かに聞こえました。ちょうど、あそこの的の裏手のほうから」
三木原さんは横一列に並んでいる弓術の的のほうへと歩いていく。
的の裏には巨大な厚手の板が並べられているので、ここからだと裏手のほうの様子が見えない。
試験を受ける立場の僕たちは、担当官である三木原さんの様子をただただ見つめていた。
やがて三木原さんが的の裏手側に回った。
まさにその直後である。
ゾクッと僕の背筋に強烈な悪寒が走った。
全身に流れる血液が一気に逆流していくほどの殺意を感じたのだ。
人間が放つ殺意ではない。
さりとて野生の獣が放つ独特な猛気でもなかった。
まさか、この感じは!
僕は殺意が感じた場所に視線を向けた。
そこは中庭の片隅にあった弓術の的が並んでいる、まさに三木原さんが様子を見に行った場所だ。
「皆さん、今すぐここから避難してください!」
僕は他の探索志望者たちに大声を発した。
しかし、探索志望者たちは一様に疑問符を浮かべている。
この殺気を感じるほどの感覚が鍛えられていないのだ。
「早くここから逃げてください!」
僕は必死になって全員の避難を促すが、それでも探索志望者たちは頭上に「?」を浮かべているだけで一向に逃げようとしない。
そうこうしている間に、明確な殺意は実際の現象として中庭に現れた。
バキバキバキバキッ!
横一列に並んでいた弓術の的の一部が激しく欠損し、その裏側から野生の獣とは一線を画す異形のモノが姿を現したのだ。
それは巨大な亀だった。
体長は5メートルは軽く超えているだろう。
ダンジョン内に生息している亀と同じく四足歩行だが、突如として現れた巨大な亀は普通の亀とは大きさも強さも別次元の存在だ。
真っ赤に輝く双眸。
岩のようにゴツゴツとした
極めつけは肌と同じく斑模様をしていた鋼鉄と思しき甲羅である。
普通の魔物ではない。
間違いなくイレギュラーだ。
「うわあああああああああああああ」
全身が斑模様で鋼鉄製の甲羅を持った巨大亀の姿を見た探索志望者たちは、すぐさま喉が張り裂けんばかりの悲鳴を上げた。
そして試験のことなど忘れて一目散に逃げていく。
一方の僕は逃げずにイレギュラーを食い入るように見つめた。
あのイレギュラーはどこから現れたんだ?
実際のところ、僕がこの場から逃げなかった最大の理由がそれだった。
ダンジョン内の他の場所ならいざ知らず、ここはダンジョン協会の本部なのだ。
ここにイレギュラーが現れたということは、まずは迷宮街にイレギュラーが現れないと辻褄が合わない。
まさか、と僕は思った。
あのイレギュラーは中に人間が入っている偽物なのか?
実はこれも探索者試験の内容の1つで、咄嗟に魔物と遭遇したときにどのような反応をすればいいのかをテストされているとか……
などと考えたのは数秒、僕は心の中で強く頭を振った。
断じて否だ。
こうして対峙しているだけでよくわかる。
鋼鉄製の甲羅を持った巨大亀は、凄まじい戦闘能力を持った本物のイレギュラーだ。
並の人間ならば睨まれるだけで気を失いかねない鋭い目つき。
口から吐き出されている白煙のような吐息。
爆弾でも傷がつくかどうかわからない固そうな肌と鋼鉄の甲羅。
森林エリアで闘った双頭のワニのイレギュラーなど比較にならない。
双頭のワニがスライムだとしたら、この鋼鉄の甲羅を持った巨大亀はオーク・エンペラーだろうか。
いや、今はそんなことどうでもいい。
あのイレギュラーが現れた場所には三木原さんが向かった。
しかし、三木原さんは僕たちの前に姿を現さないのだ。
ということは――。
僕の脳裏に最悪な事態が浮かんだとき、イレギュラーは右の前足を持ち上げて地面に激しく叩きつけた。
中庭全体が大きく揺れ動き、隣接していた建物の窓ガラスを一斉に割るほどの衝撃と強震が発生する。
僕は咄嗟にしゃがむことで転倒こそ免れたが、地面から伝わってきた衝撃と強震で僕はイレギュラーと自分の実力の差を感じてしまった。
同時にこうも思った。
今の僕では勝てないかもしれない、と。