ジャアアァァァ──そんな音と共に、細やかな無数の穴から熱くもなければそう温くもない、そんな中間辺りを維持した温水が流れ出す。
「ふう……」
温かな水が身体を、肌を濡らす。温水が自分を伝い、浴室のタイルをしっとりと叩く度に。全身に浮いていた汗が流し落とされていくのを、呆然としながらも実感する。
そのなんとも言えない心地良さに、自然と。小さく薄く開かれた唇の隙間から、ラグナは安堵のため息を吐いていた。
ラグナがそうしてシャワーを浴びていたのは、実際には僅か数分のことだ。しかしラグナ当人からすれば、それは何時間のことのように思えた。まるで今過ぎ去っていく時間をのっぺりと、薄く長く引き伸ばしているような。そんな漠然とした錯覚が、ラグナの中にはあった。
閉じていた瞳を、ゆっくりと。静かに、ラグナは開かせる。直後、紅玉が如きラグナの瞳が捉えたものは────一枚の鏡であった。
そう珍しくもない、至って普通の浴室鏡だ。然程巨大という訳ではないが、メルネの頭の天辺から足の爪先までを映すには十分に事足りて。必然、彼女よりも一回り背の小さいラグナの全身も、映すのは容易である。
その鏡に映る自分の姿────そこにいるのは、一人の少女。見るからにか弱そうな、赤い髪をした少女。
「…………」
シャワーヘッドから流れ続ける温水が浴室のタイルを叩く最中、気がつけばラグナはその鏡に視線を奪われていた。鏡に映り込んだ、少女の姿に囚われていた。
見惚れていた訳ではない。ただ、
それは何故か。どうしてか。その理由はただ一つ────
何を今さら、と。きっと誰もが思うことだろう。そんなラグナを、きっと誰もが未練がましく往生際が悪いと思うことだろう。他の誰でもない、ラグナ当人がそう思っているのだから。
だが、それでも構わなかった。こんなろくでもない、どうしようもない、始末のつけようもなく救いようもない現実が。頭から尻尾まで、最初から最後まで。何から何まで嘘になって、そして全部が全部元通りになってくれるのなら。それをラグナは全身全霊喜んで受け入れるつもりだった。
……けれど、そんなラグナの思いは裏切られる。いくら見つめていようと、どれだけ見つめようと。鏡の少女は微動だにせず。ただじっと、ラグナを見つめ返すだけ。ラグナと全く同じ表情で、全く同じ眼差しで。
「…………まあ、そりゃそうだよな」
やがて先に痺れを切らしたのはラグナの方だった。否、この表現は正しくはない。そもそもこの浴室には最初から、ラグナただ一人しかいないのだから。どうあっても、どう転んでも。痺れを切らすのはラグナ一人で、先も後もないのだから。
投げやりにそう吐き捨てて、ラグナは肩に手をやる。鏡の少女もまた、肩に手をやった。寸分と違わない、全く同じ動きだった。
そんな
──ああ、そうだ。そうだよ。
華奢な肩から、か細い腕に。心の中で呟きながら、ラグナは手を這わせ。ギュッ、と抱く。鏡の少女も、また同じように。
いつしか、気がつけば。ラグナは鏡が苦手になっていた。自ら遠去け、できるだけ視界に入れないようになっていた。それは何故か────明白である。鏡は誰よりも、何よりも正直で。嘘偽りなく、有りの儘の全てを其処に映し出す。映し出して、一切の遠慮もなく、一片の容赦もなくこちらに見せつけてくる。
小綺麗な顔。長い髪。細い肩と腕。膨らんだ胸。脆そうな腰。丸い尻。決定的な違いを示す、股間。
そう、鏡は映すのだ。鏡は見せるのだ。そんな今の自分を。どこからどう見ても、誰がどう見ても。もはやただの少女でしかない、今の自分を────────
『僕の知っているラグナ先輩じゃない、今の
────────ラグナ=アルティ=ブレイズではない、今の自分の姿を。変えようのない、この現実を。鏡は見せつけてくる。それに堪えられず、気がつけばラグナは顔を伏せていた。
温水が髪を濡らし、顔に伝う。目からも温水が流れるのをラグナは感じたが、それは勘違いでシャワーヘッドから流れる温水だと決めつける。
そうしてしばらく、ラグナはシャワーを浴び続けた。目からも流れる温水が、止まるまで。