必死だった。無我夢中のことだった。気がつけば、鞘から剣を引き抜き。声を荒げ叫びながら振り上げたそれを、クラハは即座に。一切の容赦なく、何の躊躇いもなく振り下ろしていた。
ザクッ──剣の切先が灰色の女性の顔面に突き刺さり。剣身が半ばまで深々と沈み込む。かと思えば、すぐさま引き抜かれた。
「黙れッ!煩いから黙れ!耳障りだから黙れ!ああ、ああ黙れッ、黙れ黙れ黙れぇッ!!いい加減に、黙れよぉおおおッ!!!」
狂乱の咆哮を上げると共に、一心不乱になってクラハは剣を突き立てる。眉間と鼻の間に穴が穿たれた灰色の女性の顔を、剣で突き続ける。
「黙れ!黙れ!黙れ!黙れ!黙れ!」
何度も。何度も、何度も。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も────────
「黙れぇええええええええええッッッッッ!!!!!」
────────そしてクラハは発狂したように、己の喉など裂け散っても構わないというように。その時、あらん限りの。自分が持てる全ての、渾身の力を。引き絞り、振り絞り、絞り切り。
ドスッッッ──振り下ろしたその剣を、
「…………」
今、この場に立っているのはクラハだけだ。クラハただ一人だけが、ここにいるのだ。そのことを、その現実を彼は呆然と理解し。地面に突き立てた剣の柄を握り締めたままの手を、震わすことしかできなくなった。
それは数秒だったか、それとも数分だったのか。とにかくそうしてしばらく突っ立っていたクラハだが、不意にゆっくりと、おっかなびっくりに周囲を見渡し。改めて自分以外の人の姿はおろか、気配すらもないことを確かめると。依然手を微かに震わせながら、地面に突き立てた剣を引き抜いた。
「……ここは現実だ。そう、現実なんだ。今僕は確かな現実に立っている。この現実の中にいるんだ。夢じゃない、あの夢の中にじゃない。そうだろ、だって声は聞こえないし、姿も見えない。だから、だから……」
と、まるで自分に言い聞かせるように呟きながら。クラハは剣を鞘に納める────直後、彼の肩が小刻みに震え出す。
「は、はは。ははは……ひ、ひ……」
それと同時に僅かに漏れる、引き攣って掠れた微かな笑い声。今、クラハが浮かべているその表情は、まさに混沌としていて。幻の恐怖に歪むその顔には、何処かこの状況を楽しんでいるかのような喜悦も混じっていた。
小さく、小さく。独り、クラハはその場で笑い続ける。その様はもはや薄気味悪く、不気味なことこの上ない。彼自身、それを自覚しているのかは定かではないが。
しかしそれでも、クラハは笑い続けていた。肩を揺らし、薄く開いた唇の隙間から、聴く者全員を不安にさせるような笑い声を漏らし続けていた。
「ひひ、ひっ……はははっ……ああそうだよなあ、そうだよなぁ……これは現実なんだ現実なんだよ。あの夢の中じゃない、あんなクソッタレの最低の最悪の夢の中なんかじゃあない。はは、そうだそうだ……だのに、一体僕は何をこんな怖がっているんだろうなあ。何で恐れているんだろうなあ。あの夢の中じゃない、この現実の中なんだから。何かを怖がることなんて、何かを恐れる必要なんて、ないのになあ……ぁはっ、あはは」
……果たして、今のクラハを目の当たりにして。一体何人が彼の正気を其処に見出せたことだろう。恐らくきっと、誰もいないのだろう。
何故ならば、誰もがどう見ても。今のクラハはその正気を失っていた。正気を擦り減らし、その限界に今や到達しかけている青年の姿としか、他の者の目には映り込んでいた。
このままではきっと、クラハは
──それはどうかな?──
────後押しするように、追い詰め追い込むかのように。クラハのすぐ耳元で、その声が囁いた。
一瞬にしてクラハの全身が硬直し。数秒遅れて、まるで壊れた機械人形のような動きで、彼は恐る恐る横に顔を向ける。そして彼は、見た。見てしまった。
つい先程、鞘に納めた剣で。顔面をこれでもかと滅多刺したはずの。あの灰色の女性が自分のすぐ隣に立っていた。無残な程にグチャグチャにされたはずの顔は、全くの無傷な。灰色の女性が立っていたのだ。
ザンッ──それは無意識の動き。鞘から引き抜くと共に、その勢いを殺さずそのまま。自分で気がつく頃には、クラハは灰色の女性の頭を両断していた。
斬り飛ばされた頭の上部分が明後日の方向へ消える最中、下からその全てがグラリと傾いたかと思えば、そのままゆっくりと地面に音を立てて倒れる。……不思議なことに、その切断面からまだ半分残っているだろう脳も、脳漿も零れ落ちることがなければ。また血が噴き出すこともなかった。
そんな、あまりにも非現実的な現実の光景を前に。クラハはただ呆然として。そんな様子の彼の肩にポンと手が置かれる。
──酷いなあ。別に問答無用で斬り殺すことないじゃーん?──
そんな声が聞こえるや否や、クラハは手に持っていた剣を放り捨て。またしても
流れるようにクラハは拳を振り上げ、こちらを見上げるその顔に一切の躊躇なく、そして一片の容赦なくその拳を振り下ろした。
ゴッ──そんな鈍い音と共に、クラハの拳が灰色の女性の顔面にめり込む。
クラハがその一度で殴ることを止めることはなかった。彼は黙々と拳を振り上げては、黙々と女性の顔面に拳を振り下ろす。彼はそれを何度も、何度も。繰り返した。
たとえ女性の顔がどれだけ血に染まろうと、どれだけ歪もうと。止めずに、クラハは女性を殴り続けた。
だが不意に、ビキッと。そんな鈍くも鋭い、割れ砕けるような激痛がクラハの拳全体に駆け抜ける。その瞬間、彼はようやく気がついた。
「…………」
次に、クラハは拳を見やる。自分の拳は────血に塗れていた。