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崩壊(その二十八)

『今!さっきッ!!あなたはクラハに見捨てられたのよッ!!』


 今し方聞いたばかりの言葉が、耳の奥でずっと響いている。


大翼の不死鳥フェニシオン』から脱退し、冒険者ランカーを辞めます』


 その言葉もまた、覆い被さるように、畳み掛けるようにして残響している。こちらの気分も精神もお構いなしに、ひっきりなしに、ずっと。






『そんな訳ないでしょうがああああああッッッ!?』


『ふざけるなっ、ふざけるな!もういないんだいないんだよぉ!!違う、違う違う違う違うあの子は違う!違うっ、違うッ!!先輩じゃないラグナ先輩なんかじゃないただの!』


『あり得ない、そんな訳がないッ!あんな!あんな、あんな何の取り柄もない!ただの女の子が!ラグナ先輩な訳ないでしょうにぃ!?』


『ラグナ先輩じゃあないのなら!ラグナ先輩なんかじゃあないあの子なんて!冒険者ランカーじゃなくて受付嬢やってる方が身の丈に合ってますよ全然ね!誰もがきっとそう思うでしょう!?』


『第一目障りなんだよ。目障りで、煩わしくてぇ……不愉快でッ!』


『ラグナ先輩を騙って装って模してッ!!!違う、お前じゃない、絶対、今さらァ!!』


『なのに僕の為?僕の為僕の為僕の僕の僕の……!』


『あの子なんて!あの女の子は!!もう、ラグナ=アルティ=ブレイズじゃあ────』






 そんな無数の言葉だけが延々と、ラグナの頭の中で永遠に。こちらの耳を劈くように、こちらの鼓膜を引き裂くように。喧しく、がなり立てては喚き散らして、一切途切れずに絶え間なく、絶叫し続けていた。


 堪え難い頭痛に、重苦しい吐き気。そして胸に突き刺さり、抉り捩じ込まれた、切なさと。心を虐げ苛んで、蝕み腐らせていく、淋しさ。


 それら全てを、その華奢で脆い、小さな身体に。押し込み抱え込みながら。ラグナは今、オールティアの街道を歩いていた。ふらふらと、ゆらゆらと。今すぐにも風に吹かれて転んで、倒れてしまいそうな。そんな危なげな足取りで。


 朝が賑わうのと同じように、夜もまた喧しいのがこのオールティアという街だ。なので当然、この時間帯であっても行き交う人々は大勢おり。また、朝には閉めていた店も、一斉に開かれる。故に夜であっても、この街は朝と昼と同じように明るく眩しい。


 ……だが、ラグナは違っていた。人は見渡す限りいるのに、独りぼっちのように思えて仕方なく。街の明かりが夜闇を照らしているにも関わらず、ラグナの目の前は何処までも暗い。


 先程から聴こえる全ての音は騒音と雑音に擦り替えられ。なのに、聞きたくもない頭の中の言葉は、過剰な程に鮮明で、一字一句はっきりと、ひっきりなしに聞こえてくる。


 ──気持ち、悪い。


 まるで病人のように青白い顔色になりながら、グチャグチャに荒らされた心の中でそう呟くラグナ。しかし、吐き気はただ込み上げてくるばかりで、身体は胃の中身を迫り上げようとはしてくれない。


 今すぐにでも喉に指でも突っ込んで、無理矢理にでも吐いてしまおうかと、ラグナは考えてしまう。理由は単純で、胃の中身をぶち撒けて、この纏わってこびり付いてくるような不快感を、ほんの少しでも解消したいからだ。


 けれど、この身体はそうはしてくれない。吐きたいと切に願いそう思っても、楽になりたいと必死に思っても、この身体がそれに従ってくれない────訳がわからない。意味がわからない。その何もかもが、わからない。自分の身体にすら裏切られた気分に陥り、ラグナはうんざりと疲労し切って辟易としてしまう。


 ──…………いや、なのか……?


 もうどうにかなりそうだった。いっそのこと、どうにかなりたかった。


 こうして確かに、自分は存在している。こうやって腕を抱き、こうやって手を握り、こうやって足を動かしている。それは紛れもない、歴とした自分自身の確とした意思────


 果たしてこれは、本当に自分の意思なのだろうか?自分がそうしたいというラグナの意思によるものなのだろうか?


 自分ラグナは自分なのか?自分は自分ラグナなのか?


 普通であればこのような馬鹿げた疑問、抱くことはおろか考えもしない。そもそも考えるようなことではない。


 だが、ラグナの場合はそうではない。


 ──……わかんねえ。


 自分という存在の意味と意義。自分ラグナという存在の証明と保証。


 ──わかんねえよ……!


 今や、それら全てがあやふやの曖昧で、霞んで薄れて。そうして、ラグナは自分が信じられなくなってしまっていた。


 ──わかる訳、ねえだろうが……ッ!


 自分がラグナであるということが、信じられなくなってしまった。


 自己への信頼が欠け、今の今までどうにか保ってきたなけなしの自己同一性アイデンティティもボロボロと音を立てて崩れ、瓦解していくのを。判然としない意識の最中で、呆然と自覚しながら。依然としてラグナは歩き続け、進み続ける。


 その途中で何度も足を縺らせ、躓き、転びそうになりながらも。ただひたすらに、どこを目指す訳でもなく。


「ぅ、ぷ……っ」


 いきなり、何の前触れもなしに。腹の底から喉元にかけて、熱くてキリキリと痛むものが込み上げてきて。ラグナはその場に立ち止まり、咄嗟に手で口元を覆う。


 吐く────しかし、ラグナがそう思ったの束の間。突然込み上げたそれは、寸前でゆっくりと、腹の奥へとまた滑り落ちていく。


 どろりと粘ついた液体が己の食道を撫で、胃に伝って滴り落ちる、あまりにも気色悪いその感覚に。ラグナは瞳を潤ませ、目の端に小さな雫を浮かばせる。


 ──気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……っ。


 やはり一思いに吐くことができたのなら、少なくとも肉体的には楽になれる。……だが、この身体はそうはしてくれない。


 それに対して、ラグナはどうしようもできない苛立ちを募らせ、どうすることもできない無力感に打ち拉がれていると────




「へい!そこの彼女。急にそんな道のド真ん中に突っ立って、通行の邪魔だぜ?一体どうしたってんだい?」




 ────不意に、背後から。軽薄さがこれ以上にない程に似合っている、そんな声音と口調で。ラグナは言葉をかけられたのだった。

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