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崩壊(その三十八)

 バァンッ──荒々しく、を通り越して。もはや叩き壊さんばかりに『大翼の不死鳥フェニシオン』の扉が押し開けられ。が、性急せっかち極まることに扉が開き切る前に、その者は広間ロビーへと押し入った。


 一体何事かと、今広間にいる冒険者ランカーの大半が扉の方へと顔をやり。そしてその誰もが全員、心胆を寒からしめるのだった。


 無理もない。今し方広間に飛び込むように押し入ったその者の────クライド=シエスタの、その顔を目の当たりにしてしまえば。


 余裕綽々よゆうしゃくしゃく。威風堂々。何処か信頼にも似た、絶対の自信。


『大翼の不死鳥』に所属する冒険者ランカーたちに限らず、この街オールティアの住民たちも。皆が皆、全員知るクライドの顔は。そういった揺るがない自尊心そうしょくが常に施されて、着飾られたもので。


 今の彼の────人形が如き無表情で。しかし、まるで今すぐにでもこぼれ落ちそうになる程に目は見開かれ。またその瞳孔も同様に、完全に開き切った、そんな彼の顔は。


 まるで狂気の谷底へ今すぐにでも身を投げようとして、正気の崖際に立っているような。そんな顔は、誰もがこの時初めて目にしただろうから。


 例え他に類を見ない程の鈍感であっても。今のクライドが普段の、日常いつも通りの彼ではないことくらいは、容易く察せられるはずだ。もしこれで察せられないのであれば、呆気なく早死にする愚者ばかに他ならない。


 そして幸いなことに、今この場にそんな者は誰一人としておらず。誰もが皆、決してクライドの行先を阻むことのないように。自殺などして堪るかと言わんばかりに、彼から距離を取る。


 故にその女性冒険者ランカーは不運だった。そして、彼女は不幸だった。悪魔の悪戯いたずらめいた、ただの偶然というだけで。今この時その一瞬、他の誰よりも少し、クライドとの距離が近かったというだけで。


 椅子にすねをぶつけるのも構わず、まるで獰猛で凶悪な魔物モンスターに対峙してしまった時と全く同様に、跳ねるようにしてその場から退き。直後、そんな女性のすぐ目の前を、クライドが通り過ぎる────その瞬間。


「ひッ……!?」


 図らずも、聞いてしまった。元はしがない盗賊シーフをやっていただけに、敏感に鍛えられていた女性の聴覚が、拾ってしまった。


 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す────という。


 まるで壊れたように、それでいて揺るぎもしない確かな意志と強い決意を以て。延々とその口から漏れるクライドの薄暗い憎悪と、仄昏い怨嗟に。塗れて染まり尽くした、彼の呟きを。


 女性とてわかっていた。別にクライドにとっては、ほんの一瞬でさえ気に留める必要もない、路傍の石に過ぎないだろう自分に対して。


 酷く悍ましく恐ろしいことこの上ない、その殺気が。自分に対してわざわざ向けられた訳ではないことくらいは、彼女とてわかっていた。


 だがそれでも、こちらの正気を削るには十二分過ぎた。


 まるで自らの喉笛に、魔物の牙が食い込み、突き刺さり。そして無惨にも噛み千切られる────そんなりもしない空想でしかない、己の最期を。女性が垣間見るのには十二分に過ぎており、彼女の顔から一瞬にして血の気を奪った。


 青いを通り越し、白い顔色を晒しながら。女性は小刻みに、絶え間なく身体を震わせ。やがて耳を澄まし意識を集中しなければ聴き取れない程の、くぐもった水音を立てる。


 少し遅れて、女性が今履いているショートパンツの股間部が徐々に色濃く変色し始め、その裾口から薄黄色い筋が数本、彼女の太腿ふとももに伝い、足を濡らす。


 やがてくぐもった水音は堰を切ったように激しさを増し、それと同時に股間部は一気に色濃くなり、裾口から伸びる筋が無数となり。


 そうしてあっという間に、女性の足元にはほんのりと湯気を漂わせる、大きな水溜まりが出来たのだった。


 今し方、自らが作り出した粗相の上に、女性は力なく尻を落とし。飛沫しぶいた彼女の尿が、周囲の床を点々と濡らす。


 しかしクライドはそんな光景には目もくれず。ただひたすらに前へ、前へと突き進む。


 ──殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」


 頭と心の中をそれだけで埋め尽くして。視線の先、並み居る冒険者の全員が恐怖に慄き、身を竦ませその場から一歩も動けないでいる最中。たった一人、未だ独り呑気に依頼表クエストボードを眺めている、その者の元へ。


「どれが良いかな……?先輩は何でもいいって言ってたけど……」


 などと、何処までも馬鹿馬鹿しくふざけた戯言を宣うその者の、すぐ背後にまで。クライドが迫るのには、一分も必要なかった。


 文字通り、手を伸ばせばすぐに届く至近距離。しかしクライドの気配にその者が気づくことはなく。それがまるでこちらからの不意打ちを誘っているかのように思えて仕方なく、そののほほんとした余裕の態度が、クライドの神経をこれでもかと逆撫でる。


「……やっぱり先輩に訊くか」


 と、呟いて。ようやっと依頼表の前から移動しようとしたその者の、無防備に晒されていた後頭部を。躊躇わず、透かさずクライドは掴んだ。


「ッ!?なっ」


 そして遠慮も容赦もせずに思い切り、突然後頭部を掴まれ素っ頓狂な間抜け声を上げたその者の顔を、クライドは依頼表に叩きつけた。


 ゴチャッ──水分を含んだ柔らかいものが、硬いものに勢い良く衝突した、嫌に生々しい音が広間ロビーに響き渡る。


「が……ッ」


 予期せぬ出来事と、顔面全体を覆う鈍痛に。その者は堪らず声を漏らす。が、そんなことは知ったことではないとでも言わんばかりに────二度三度、更に数回、クライドは後頭部を掴んだままに、その者の顔面で依頼表を叩くのだった。


 叩きつけられる音に重なる、痛みに喘ぎ呻く声。それを聴いて────その場から動こうとする者は、誰一人としていない。男たちは息を殺し、女たちは手で口を押さえて。皆誰もが全員、動けないでしまっている。


 わかっているから。もしその行為を止めようものなら、まるで塵芥ゴミを処分するかの如く、簡単に殺されてしまうのだと、理解してしまっているから。


 だから誰も動けない。誰も止めない。誰も助けない。何故なら誰だって、自分の身の安全が第一だから。自分の命が一番なのだから。


 そうして音と声が等しく、十数回鳴って。やがて声はしなくなったが、それでも音だけは続いて。


 依頼表クエストボードにはっきりとした血の一本線が引かれた後。ようやく、クライドはその手を止めた。


 誰もが思った。やっと満足したのか、と。これようやく、その者も自分たちも解放されるのだと。今し方行なわれていた、クライドの横暴の終わりを。その場にいる全員、誰しもが皆、予想した。


 だが、そんな希望的観測に満ちた予想は──────────






「クラハ=ウインドアァァァッ!お前ェ!よくもォォォ!!やってくれたなァァァァアアアアッ!!!」






 ──────────という、常軌を逸したクライドの声によって。大いに覆され、そして粉微塵に打ち砕かれるのだった。

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