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終焉の始まり(その二十三)

「…………」


 指先に絡んで纏わりついている、どろりとしたそれ。それを、メルネは嫌悪や不快を示すことなく、ただ静かに眺める。


 眺めて、それから徐に、指先を口元へ近づけた。紙や布で拭き取らず、そのまま。お構いなしに唇に触れさせ、その粘度を感じながら。


 伸ばした舌先で、メルネは掬うように舐め取った。


 そうして確かめた、ラグナの味。新鮮で生々しい、ラグナの、雌の味。


「……しょっぱい」


 と、一言呟き。数秒の間沈黙していたメルネであったが、不意に彼女は笑い出す。肩を小刻みに揺らし、酷く乾いた笑い声を、掠れさせながら漏らす。


 そして悟った、というよりは何もかもを諦めてしまったかのような、そんな自嘲の笑みを浮かべながら────






「結局、私も同じだったってこと……かぁ」






 ────力なく、メルネはそう呟くのだった。


 快楽漬けにして虜にして、こちらに依存させてしまうのが。一番、手っ取り早いと思った。そう思ったからこそ。


 寝室を訪ね、押し入り。寝台ベッドに押し倒し、組み伏せ。その唇を奪って、その舌を絡め取って。


 そうして強請らせて、媚びらせて。そして最後には、達させた。こちらの意思で、お構いなしに、躊躇わず遠慮なく。


 故にだからこそ、同じ──────────






『そうだ。俺はライザー……一年前、『大翼の不死鳥フェニシオン』から抜けたS冒険者ランカーのライザー=アシュヴァツグフだ』



『そんな訳ないでしょうがああああああッッッ!?』






 ──────────自分もまた、彼らと同じだったということ。


 此の期に及んで、もはや手遅れで、既に取り返しがつかないことを承知の上で。導き出した、その結論。ぐうの音も出せない程否定しようがなく、認める他にない、その帰結。


 何もかもを諦めた、或いは全てを捨て去ったようなその一言は。より強く、それを実感する為のもの。より深く、罪の意識を得る為のもの。


「私も、二人と同じ……」


 そうしてとうとう、遂に。メルネは正気を取り戻した。正気を取り戻した彼女は、受け入れた。




 己が最も忌み嫌い、恨み憎んだ彼ら。そんな彼らと同じ存在────最低最悪の同類同族に。自ら、成り果てたことを。




 ──……そういえば私、何がしたかったんだっけ……?


 未だラグナのそれが絡んで纏わったままの指先を見つめ、余さず視界に全てを映し込みながら。唐突に、メルネは自分に問いかける。


 こうしてこのように、彼らと同じように、身勝手にラグナを傷つけて。穢らわしい己が欲望に、ラグナを無理矢理巻き込んでまで。結局のところ、自分は一体何がしたかったのか────今更ながら、遅過ぎると思いながら。メルネは考える。彼女はその答えを見出そうとする。


 ──私はラグナを救いたかった。私が救いたかったから、あいつに……クラハになんか、もう救わせたくなくて。


 そうして終わりのない思考の螺旋を描いて、落ちていくその最中────瞬間、メルネは思い至る。






 ──ああ、私はクラハ=ウインドアを否定したかったんだ。






「ふ、ふふっ……あは、ははは……」


 メルネは気づいた。彼女は気づかされた。直後、堪らず彼女の口から笑い声が漏れ出す。


「なぁんだ……私は救いたかったんじゃなくて、否定したかった……クラハを否定する為にラグナを救おうとしてた、だけだったんだぁ。そっか、そっかぁ……あははっ」


 ラグナを救うと、あれ程言って、言い続けて。ラグナを救いたいと、宣って。


 けれどその全ては、クラハ。ラグナを救えなかった────否、救おうとしなかったクラハ=ウインドアを。あの男を否定する為だった。あの男が救わなかったラグナを救うことで、そうすることで否定したかった。ただ、それだけのことだった。






『貴女の押し付けがましい理想もうそうに、僕を付き合わせないでください』






 ただそれだけのことの為に。そんな取るに足らない、実にくだらない理由で。あれ程大切に、狂おしい程に大事に想っていたラグナを。






『その名前、。本当に、不思議……』






 自分のことは忘れてしまったというのに、記憶喪失の原因となったクラハのことには憶えがあって。どうして自分はそうではないのかわからなくて、納得できなくて、悔しくなって────感情の整理がつかないまま、激情に突き動かされたメルネは。


 このような暴挙に走り、ラグナを都合のいい、否定材料にしてしまった。


「私最低だなぁ……私って、最悪なんだなぁ……」


 そうして、メルネは理解する────己が目的の為なら、どんなに大切で大事にしている存在であっても、形振り構わず利用し巻き込む。そんな利己的主義者エゴイストに過ぎない、と。


 所詮耳聞こえの良い言葉を言うだけ言って、言い繕って。結局はただ自分だけが満足したかった、偽善者に過ぎなかった、と


 結局はラグナをただ傷つけただけの、小っぽけで無力で、何もできない人間でしかない、と。


 その全てが意味することとは、つまり。メルネは成り果てて。彼女は最初から、ということ。


 メルネ=クリスタは元から、己が忌み嫌い、恨み憎んだ存在────


 それを理解してしまったメルネはもう、壊れたような笑い声を、壊れたように垂れ流すことしかできないでいる。その様子と、底知れぬ絶望に沈んだ昏き瞳を目の当たりにすれば。誰にでも、きっと誰であろうとわかることだろう。


 今この時、メルネの中で。彼女を支え続けてきたものが、瓦解し。そして一気に、全て崩壊してしまったのだ、と。


──……メルネ、さん……。


 そんなメルネのことを。未だ絶頂の余韻が抜け切らず、半ば蕩けている意識の最中。彼女の瞳から止め処なく零れ落ちてくる涙を腹部に受けながら、ラグナは呆然と見上げるのだった。

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