目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

終焉の始まり(その三十九)

「いやぁ、それにしてもよく似合ってますね」


 この街オールティアの教会の中で、その男────ライザー=アシュヴァツグフの声が響き渡る。厳粛な静寂の最中で、まるで他人をあざけるような彼の声音は、何故か妙に通って聴こえた。


「今のあなたにはお似合いの格好だ。本当に、ね」


 無数に並べられた教会の長椅子ベンチの、それも祭壇に一番近いものの一つに。どっしりと、遠慮なく腰を下ろし座りながら。口端を鋭く吊り上げさせた邪悪な笑みを浮かべ、ライザーは嫌味たっぷりにそう言う。


「……」


 対して、祭壇に座り込んでいるドレス姿の少女────ラグナは口を閉ざして何も言わず、ライザーをただ睨めつけていた。


「白状すると、想定外でした。まさかあなたが記憶喪失になるとは……まあ、今となってはそれも別に問題ないというか。もはやどうでもいいというか」


 その言葉に対しても、ラグナの返事はなく。しかしそれを気にした様子もなく、徐にライザーは長椅子から立ち上がると。そのまま、祭壇に向かって歩き出す。


「いや、そりゃあ俺にだって多少なりとも罪悪感はありますよ?ええ、ありますとも。別に何もこっちだってそこまでは求めてはいなかった。……本当ですよ?」


 と、悪趣味にふざけた声音でそう言って、薄ら笑いながらゆっくりと進み。そうして、ラグナの目の前にまで歩み寄るライザー。


「しかし、残念です」


 ラグナを見下ろしながら、ライザーは静かに言う。


「これで事実上、世界最強の一人と謳われた《SS》冒険者ランカー、『炎鬼神』ラグナ=アルティ=ブレイズは消え去ってしまったのだから」


 そう言って、ライザーは眼下のラグナを見下ろす。その眼差しはとても冷ややかなもので。だが、言い表すこともできない、寂寥のようなものがその中に見え隠れしている────ようにも思えた。


 その場に屈み込み、ラグナとの目線を合わせたライザーは。唐突に己が手を伸ばし、そして。


 クイ──軽く、ラグナの顎を持ち上げた。


「言いますよねえ……接吻キスの味は甘酸っぱいとかって」


 言って、ライザーは親指の腹で。元々の薄赤い色素を目立たせるように口紅リップが引かれたラグナの唇を、拭うように撫でると。それから彼はラグナの顎を離し、自らの口元に近づけ────何の躊躇もなく舐めた。


「まあそんな訳ないんですがね。ハハッ」


 と、側から見れば変態でしかないその所業を。難なく平然とやってのけたライザーは歪で悪趣味な嗤顔えがおを浮かべながら、そう吐き捨てる。


 そんな常人であれば嫌悪感を剥き出しにせずにはいられない仕打ちをライザーから受けたラグナだったが。その表情は全く動揺せずに毅然としており、彼を睨む眼差しもまた、少しも弱まらず揺らいでいない。


 そんな気丈な振る舞いを見せるラグナに対して、最初こそ何でもないかのような態度を取っていたライザーだったが。


「……チッ、可愛い悲鳴の一つでも上げろよ。つまらねえな」


 と、不意に不愉快そうに舌打ちをして、苛立たしげに吐き捨てるのだった。


 そんなライザーのことを鋭く睨んでいたラグナであったが、ここでようやっと彼から視線を外し。顔を逸らしながら、ぽつりと呟く。


「可哀想な人」


 そのたったの一言が、ライザーの意識の全てを引っ張ったのは、言うまでもなかった。


「……可哀想って、何が?」


 ライザーの嗤顔えがおが一瞬にして消え去り、まるで不気味な人形の如き無表情になって、彼はラグナに訊ねる。


「本当は辛いのに。もう堪えられないのに、それでもつまらない意地を張って。何ともないみたいに振る舞って。そうやって、自分で自分のことを追い込んで、追い詰めてる。だから、可哀想な人だなって」


 淡々と続けられるラグナの言葉を、黙って聞くライザー。その顔は依然として無表情で、彼が今何を考え思っているのかは、付き合いがある者ならまだしも、そうでない者が察するにはいささか無理があった。


「……要は何が言いたい?」


 少し遅れて、そう訊ねるライザー。するとラグナは数秒の間を置いてから、彼に答えた。


「貴方大事で大切な人を、自分から捨てたんですよね」


 瞬間、ライザーが固まった。その反応は間違いなく、核心を突かれたもので。そしてそれをラグナは見逃さなかった。


「やっぱり、似てます」


「似てる?俺が誰に?」


 透かさず呟かれたラグナの言葉に、すぐさま食いつくライザー。暗にそれが己の動揺を伝えていることは彼も理解していたが、しかしそれでも訊き返さずにはいられなかった。


 そんなライザーに対して、ラグナは憐れみの声音で、彼にとって決定的なその一言を告げた。


「クラハさんと貴方が」


 ラグナの言葉を耳にしたライザーが、目を見開かせる。もはや彼に体裁を整える余裕は、なかった。


「顔や態度には出さないのに、目でこれでもかと主張しているところが、特に」


 が、そんなことは知ったことではないと、お構いなしに続けるラグナ。そんな彼女にライザーが低い声音で、吐き捨てるように言い放つ。


「黙れ」


 大概の者であれば、それに含まれる尋常ではない威圧感に気圧され、黙る────が、ラグナは臆さない。


「だってそうじゃないですか。二人揃って、同じことをしてるんですから。自分の選択に苦しんで、悲しんで。なのに、それでも止まらない……もう後には引けなかったんですか?それとも、そうする勇気が貴方たちにはなかったんですか」


 スッ──そのラグナの問いかけに対して、ライザーは指先を突きつけた。


「もういい」


 瞬間、ライザーの指先から放たれた魔力がラグナの身体を貫き。直後、ラグナは猛烈で抗い難い睡魔に襲われた。


「くっ、ぅ……」


 懸命に意識を保とうとするが、瞬く間に思考が鈍化し、やがて、ラグナは何も考えられなくなる。そうして勝手に、瞼が落ちていく。


 睡魔に呑まれる寸前、混濁する意識の最中。ラグナはせめてもの意地をライザーに見せつける。


「くらはさん、もあな、たも……らぐな、も……み、んな、ば、か……」


 呂律が回らず、だがそれでも言い終えたラグナは。限界を迎え、遂にその瞼が完全に落ちた。


 意識を失ったラグナの身体が倒れる────前に、ライザーの腕が支え。それからゆっくりと、まるで割れ物を扱うかの如く、慎重に床に寝かせる。


 すぐさま聞こえてきた可愛らしい寝息に耳を傾けるライザー。


『貴方も大事で大切な人を、自分から捨てたんですよね』


 先程のラグナの言葉が脳裏で響き渡り──────────











「ライザー様」











「それはもう捨てた」


 ──────────と、まるで自分に言い聞かせるように吐き捨て。過らせたを振り払ったライザーは、頭上を仰ぎ見る。


「男は馬鹿なくらいが丁度いい……お前もそう思うだろ?」


 少しして、ライザーはそう訊ね────






「……ライザー。ラグナ先輩を返してもらう」






 ────その問いかけには答えず、今し方教会に辿り着いたクラハが彼にそう言った。


「質問にはきちんと答えろって教わらなかったのか?まあ別にどうでもいいけどな。……ほらよ、お前の言う先輩とやらはここだ、ここ」


 と、足元のラグナを指で指し示すライザー。彼は不敵な笑みを浮かべて、クラハに言う。


「安心しろ。俺はこう見えてもそれなりに優しいんで、ただ寝かせてるだけさ。……ちょっとばかしの悪戯を愉しませてもらった後でな」


 その嘘が見透かされたのかは定かではないが、クラハの表情が変わることはなく。望んだ反応を得られずライザーは肩を竦めさせるが、気を取り直したように告げる。


「わかったわかった。俺と無駄話をするつもりがないのはよぉくわかった。……そんじゃ、さっさと始めるか」


 言うや否や、腰に下げた得物である長剣ロングソードを抜き、構えるライザー。対して、クラハは何もしない。何の動きも見せず、その場に立っているだけだった。


 そんなクラハをライザーは眺めながら少し歩き出し────唐突に構えていた長剣を


 宙を切り裂きながら突き進む長剣はそのまま、その場を通り過ぎて、教会の扉に深々と突き刺さった。


 ライザーのすぐ目の前に、クラハはいた。依然として得物を抜いてもいなければそのつもりもない彼を見やって、ライザーは疑問を抱く。


 ──殴ろうにもこの距離じゃ話にならねえってのに、こいつ何を考えてやがる?






 ドスッ──そう疑問に思ったのも束の間。ライザーが気がついた時には、彼の腹部に突き刺すようにして、クラハの拳が打ち込まれていた。






「っご、あ゛……ッ!?」


 一瞬、詰まったように息が止まり、意識が飛びかけたものの。ライザーは唇を噛み締め血を垂らしながら意識を保ち、目の前のクラハを鋭く睨み、見据える。


 ──寸勁……!!


 寸勁────それは第三サドヴァ大陸のある地方の武僧モンクと呼ばれる特殊な武闘家の間に伝わる、拳撃の高等技術。その詳しい原理はライザーも知らないが、何でも最短で最大の威力を相手に叩き込むことを極意としているらしい。


──なる、ほど……これがそういうこと、か……っ。


 それを身を以て体感した結果、その脅威をライザーは文字通り痛感した。確かにこんなゼロ距離でここまでの威力を発揮できるのなら、虚を突く一撃として申し分ない。


 ──けどなぁ、こっちだって似たような技は使えるぜ……ッ!?


 意趣返しと言わんばかりに、ライザーは拳を握り締め、力強く固めて。寸勁と類似したその一撃をクラハに放つ────その寸前。


 ──ッ!!本命!!!


 と、ライザーが気がついた時にはもう遅かった。






「【放出バースト】」






 ライザーの腹部に打ち込まれていたままだったクラハの拳から、魔力の波動が撃ち出され、ライザーの身体を突き抜ける。


 波動は軌道上にあった長椅子ベンチを砕き、祭壇の上で眠るラグナの頭上を通り過ぎて、壁にまで到達し。中心部を大きく凹ませ、周囲に亀裂を駆け巡らせ、無数の罅を走らせた。


 少し遅れて、クラハが拳をゆっくりと下ろす。対してライザーは不敵な笑みを浮かべたまま、その場に突っ立っている。


 口を開くことを憚られる沈黙の最中、クラハとライザーは互いに見合い続け、数秒────先に動いたのはライザーの方だった。


 一歩踏み出し、腕を振り上げた瞬間。ライザーの身体は大きく揺れ、彼はそのまま膝を折ったかと思えば。その顔に笑みを浮かべたまま、静かに倒れた。


 倒れたライザーをクラハは数秒の間見つめ、微動だにせず起き上がる様子が見られないことを確認すると。彼は弾かれたようにその場から駆け出す。


「先輩!」


 そうしてラグナの元まで駆け寄ると、クラハは呼びかけながらその身体を抱き上げ、揺さぶる。


 しかし、ラグナは目を覚さない。瞳を開かず、寝息も途切れない。


「起きてください、先輩。ラグナ先輩……!」


 それでも挫けることなく懸命に、クラハが呼びかけ続け、揺さぶり続けた末に。


 とうとう遂に、まるで根負けしたかのように────固く閉ざされていたその瞼が、徐々に開かれ。


「…………」


 燦々とした煌めきを灯す、紅玉が如き瞳が。ゆっくりと、クラハを捉えた。


「先輩!大丈夫ですか!?怪我はありませんか!?」


 慌てて早口でそう訊ねるクラハの頬に、ラグナはそっと手を伸ばす────かに思われた、その瞬間。




 パァンッ──クラハの頬を、ラグナは引っ叩いた。




「……どの面下げて、戻って来てんだ。この野郎」


 そして怒りと軽蔑を込めて、クラハに向かってそう吐き捨てるのだった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?