目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

RESTART(その十二)

「…………くら、は……?」


 最初、この状況に理解が追いつかず。だいぶ遅れて、ようやっと、恐る恐ると。ラグナは口を開き、まるで信じられないという声音で、確かめるようにそう訊ねる。


 それに対して、片腕でラグナを抱き上げるクラハは何も言わず。沈黙を保ったまま、独り困惑に囚われているラグナのことを、徐に地面へと降ろす。触れただけで壊れて砕けて散ってしまう程に脆いものにそうするような、丁寧さと慎重さで。


「……クラハ」


 再度、地面に降ろされ己が両足で立つラグナが、不安げにその名を呟く。


 ラグナがそうなってしまうのも無理はない。何故ならば、今目の前にいるクラハが、まるで別人のようだったのだから。ラグナですら別人と思わざるを得ない程に、漂わせるその雰囲気が一変していたのだから。


 ──本当にクラハ、なのか……?


 と、思わず内心で呟き。胸中に言い知れない不安を堪らずに渦巻かせながら、ラグナはクラハのことを心配そうに見上げる。


「僕は僕です」


 すると唐突に、今の今まで黙っていたクラハが口を開いた。こちらの心の中を見透かしたようなその一言に、ラグナの心臓が跳ねる。


 クラハといえば日常いつも通りの微笑を携えながら、自分が羽織っている外套コートを徐に脱ぎ、そうしてラグナにそっと、優しく羽織らせるのだった。


「待っていてください」


 固まる他になく、その場に立ち尽くすラグナに、クラハはそう言うと背を向けて。彼はエンディニグル・ネガの方に振り返る。


「すぐに終わらせます」


 と、吐き捨てるように言ったクラハのその声は。十数年という決して短くはない月日を彼と共に過ごしたラグナでさえ、今初めて聴いた程に。低く、冷たい声だった。


 一体何が何だか、もはやラグナにはわからなかった。あんなにも悲惨に、そして無惨にも破壊されたその手足も、ああも潰されてしまったその両目も、今やまるで何事もなかったかのように元通りとなっていて。ぽっかりと空いていた胸元の穴も、すっかりと塞がっていて。


 そもそも、確かに、さっきまで死んでいたはずなのに────


「……おう」


 ────けれど、それでもよかった。だって、こうしてクラハが生きているのだから。


 ラグナにとって、もうそれだけでよくて。充分で、胸が一杯で。そうして、羽織らせてもらった外套を握り締めながら、ラグナはクラハの背中を見送る。


「何なのだ……何なのだ何なのだ何なのださっきから一体何なんだ!?これはッ!?何が起きて、何が起こっているというのだァッ!?」


 一方、これまででも最大限の混乱に見舞われているエンディニグル・ネガは。ただ取り乱し、ただ喚いていることしかできないでいた。そんなエンディニグル・ネガの醜態を嘲笑うこともなければ蔑むこともなく、淡々と歩き、淡々と進むクラハ。


「ぐっ……おのれ、おのれおのれおのれッ!この、くたばり損なった死に損ない風情がッ!」


 そう叫ぶや否や、エンディニグル・ネガの周囲が黒ずみ、無数の黒い手が次々と這い出て、宙に伸び。群れを成して、一個の生命いのちの如く、波打ち揺らめき、蠢いた。


「往生際が悪いこと、至極この上なしッ!!故に我が今こそ、引導を渡してやろうッ!!」


 言い終えて、エンディニグル・ネガはクラハを指差し。直後、全ての黒い手が総勢となって、さなが瀑布ばくふの如く、クラハに向かって押し寄せ殺到するのだった。


 飲み込まれてしまえば最後、肉の一欠片とて残さず余さず、粉砕されることは必至────無論、クラハとてそれがわかっていない訳ではない。


 が、しかし。それでもクラハは。退避することもなく、構わずに。


 そうしてあっという間に全ての黒い手がクラハの目前へと迫り────全ての黒い手が。軒並み、弾かれたようにクラハを避けたのだ。


「ッ!?何だと……ッ!」


 自らが使役する黒い手らの、そのあり得ない不可解極まる挙動に、エンディニグル・ネガは驚きの声を上げつつも。再び攻撃の意思を通わせ、今度はクラハのことを頭上からし潰そうとする────




「……な、何?何故だ、何故……動かんッ?」




 ────しかし、そのエンディニグル・ネガの言葉通り、全ての黒い手は意思に反してまるで動かず。もはやただそこに、微かに震えながら存在しているだけとなっていた。


 ──……馬鹿な。そんな、訳が……。


 そんな黒い手らの無様を見せつけられて、を理解してしまったエンディニグル・ネガは、即座に否と断じる。


 そんなエンディニグル・ネガのことなど、まるで意に介した様子もなく。不意に、クラハはその場に立ち止まる。そうして、少し遅れてからのこと。


 他は元通りとなっていたものの、未だ失われたままの右腕────異変は突然のことであった。


 言うなればそれは、黒。影とも夜とも闇とも違う、ただひたすらの黒い。無論クラハの血でもなければ、可視化される程に超高密度となった彼の魔力でもない。


 は何の予兆も前触れもなく、クラハの右肩から。あっという間に人の腕の形を取り────気がつけば、まるで元々そこにあったかのような自然さで、クラハの右腕はそこにあった。


 目の前で繰り広げられた一連の光景を、エンディニグル・ネガが理解はおろか認識する間もなく、徐にクラハは右腕を振り上げ、己が右手を宙へと掲げて。


 瞬間、瓦礫に埋もれていた、剣身が折られたクラハの長剣ロングソードが独りでに飛び出し。回転しながら宙を舞い、そうしてクラハの右手の中に収まる。


確と、クラハは柄を握り締め、そして振り下ろす────が、折れた先から伸びていた。


「僕はお前を許さない」


 と、静かに呟くクラハのことを。エンディニグル・ネガはその場から、呆然と眺めるしかなく。その最中にて、エンディニグル・ネガは今一度思い直す。


 ──我は知っている。この感覚、以前にも味わったことがある……。


 謂わばエンディニグル・ネガの黒い手は本能だ。エンディニグル・ネガの意のままに従っているように見えるが、そうではなく。エンディニグル・ネガの本能のままに、ただ動いているだけに過ぎない。


 エンディニグル・ネガが壊したいのなら壊し、エンディニグル・ネガが殺したいのなら殺す────そういうものなのである。


 そんなエンディニグル・ネガの黒い手が見せた、先程の反応。クラハに対して震えていたその様は、誰が何処からどう見ても────


「ラグナ先輩を辱めて、貶めた。お前だけは、絶対に」


 そう言って、こちらを見据えるクラハの。その鋭く冷淡な眼差しに、エンディニグル・ネガはようやっと思い出す。そうして、脳裏をぎる────あの笑顔。


 ──……ああ、そうか。


 あの笑顔。荒々しく獰猛ながらも、まるで無邪気な子供のような。面白い玩具を見つけたような、何処か狂気を帯びた、あの歓喜の笑顔────他の誰でもない、ラグナ=アルティ=ブレイズの笑顔。


 今になってそれを思い出しながら、こうして人の身にくだったことで真に理解し得たその感情の名を、エンディニグル・ネガは呟く。


「これが恐怖、か」


 直後、クラハが剣を振るい──────────気づいた時にはもう既に、エンディニグル・ネガの視界の全ては、黒に呑まれていた。




















「…………ここは、どこだ……?」


 と、呟くエンディニグル・ネガ────否、予言に記されし第一の滅び、『魔焉崩神』エンディニグル。


 上下左右。どこを見回し、見渡そうが。ただ、何処までも果てしない闇が広がる最中。呆然と立ち尽くしていたエンディニグルであったが、徐に己が背後を振り返る。


 エンディニグルは理解した。理解させられた。理解せざるを得なかった。もう理解するしかなかった。


「……あぁ、あぁぁ……ぁぁぁ」


 此処は影の中だ。此処は夜の中だ。此処は闇の中だ。此処は────腹の中だ。


 先程理解したばかりの恐怖でその顔を歪ませながら、エンディニグルは少しずつ、その場から後退る。


 だが、そうしたところで無意味であることも理解していた。もはや逃げ場などありはしないということも、エンディニグルは理解していた。


 理解していながら、しかし。それでも、エンディニグルは逃げ出そうとした。そうしなければ、気が済まなかった。


「ぁぁぁあああああっ!!ああああああああああっ!!」


 そうしてエンディニグルは駆け出す。堪らず転びそうになりながら、形振り構わず、死に物狂いの逃走を始める。


「た、助けっ……われをお助けくださいッ!」


 と、救いの声を上げて助けを求めたところで。それもまた無意味でしかないことも、エンディニグルは理解していた。


 そんなエンディニグルを、は見下ろす。


 は影だった。は夜だった。は闇だった。何処までも黒く、そして何処までも昏かった。


 覆うそれは影か、夜か、闇か。そのどれでもあり、そのどれでもないのだろう。およそ人の言語では言い表せぬそれは風もないのに靡いて、蠢いて。それの全てが、黒く昏いその全てが妖しく不気味に、脈動するように揺らめいている。


 延々と伸びる影が如く。広々と拡がる夜が如く。そして全てを呑み込む闇が如く。始まりが見えなければ終わりも見えない、悠久なる果てしなきその大巨躯は。


 大熊のように逞しく。雌豹のように麗しく。そして、獅子のように厳かであり。


 もたげられたその頭からは、山羊のものを彷彿とさせる巨大な角が天を突かんと生えており。またその角自体からも七つの角が生えており。それぞれが歪に連なるその形は、さながら冠のようであった。


ははよ、我が偉大なる祖よッ!どうか、どうか我をお助けくださいッ!どうかッ!!」


 往生際悪く、未だに助けを求めながら逃げ続けるエンディニグルを、瞳が睨める。円環を纏い逆立つ十の尾を背に、ゴウと激烈に炎上する竜の瞳が、ただエンディニグルを睥睨し────徐に、奈落くちが開かれ、深淵のどの奥底を覗かせ。


「我は消えたくない!消えたくない、まだ消えたくない……!我はまだ死にたくな











 そうして、エンディニグルはあっという間に。容易く、呆気なく、一呑みにされるのだった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?