その咆哮は低く、唸るように建物全体を震わせた。産まれて初めて聴く類の声だ。狼とも、ライオンとも違う。それなりの根性はある方だと自覚していた夏俊も、しばし硬直して動けなくなってしまった。
――い、今のが、キメラってやつか?
キメラ――合成獣。恐らくは、テロリストが作ったのであろう特殊なモンスター。普通の動物ではないというのなら、今まで聞いたことのあるどの動物とも違った声であってもなんらおかしくはないが。
今の声の何が不気味であったかって、動物よりも――人間の唸り声に近いように聞こえたからだ。低い男性の声、女性の声、子供の声、年寄りの声。それらが複数入り混じって唱和するような、あるいはそのどれとも違うような奇っ怪な声だった。残念ながら自分の語彙力では、これ以上その不気味さを説明できる自信はないが。
確かなことは一つ。
人間を喰う――そう言われても納得できてしまうほど、おぞましく、悪意に満ちた声であったということだけだ。
「い、今のがキメラか!?」
大毅がきょろきょろとあたりを見回す。幸い、声はそれなりに遠かった。すぐ近くに、何かが近づいて来るような様子もない。音はだいぶ下の方から聞こえてきたようだし、そう考えると聖也が言っていた“最初の広場付近”にキメラが放たれた可能性は高そうである。急いで最上階まで逃げた自分達の選択は、正しかったのかもしれない。
問題は。自分達以外のグループが、キメラに遭遇する可能性があるということ。
そもそも普通のモンスターとやらは、目の前に獲物も何もいない状態で、あそこまで派手に吠えるものであるのだろうか。
「まずいな」
聖也が舌打ちする。
「どうやら速攻で、キメラに捕まったグループがあったようだ。声はほぼ俺達の真下から……ってことは、ぶつかったとしたら、彩也のチームか」
確かに、扉を背にして東――右手方向に進んでいったのは、毒島彩也をリーダーとしたチームである(便宜上、通信係を一旦リーダーとして定めたのだ)。他のチームにも、なるべく広場から離れたところから探索を開始するように聖也が言っていたはず。すぐにキメラと遭遇する可能性は低いと踏んでいたが、アテが外れてしまったのかもしれない。
それと、スタート時に素直に聖也の指示を待って、広場周辺に集まって協力体制を取ったのは二十二人のみ。クラス全員の人数は三十人なので、八人の生徒は無視して何処かに行ってしまったことになる。その生徒の誰かが、キメラにぶつかって襲われたという可能性も十分にあるだろう。
そう、その八人というのが厄介なのだ。ほとんどが協調性がない上、生き残るためなら手段を選ばなそうな者も混じっているのである。そのメンバーの動きは聖也にも予想ができないはず。下手に足を引っ張って、余計なことをしてくれないといいのだが。
他の者がどれほど気づいているかはわからないが、夏俊は最初からこのゲームに全員分の鍵が用意されていない可能性は高いと踏んでいた。同じ可能性に行き着いている者がもし他にもいたとしたら、その者達は他のクラスメートを犠牲にしてでも生き延びようとするだろう。
――鍵が、足らないかもしれない。聖也はそれに気づいているのか?……いや、多分気づいているから、最悪鍵がなくても脱出できる方法を探そうとしてるんだよな……?
色々と尋ねたいことはあったが、その時間はなさそうだ。何故なら。
「お前ら、ひとつ前の部屋を確認しに行っててくれ。トラップがあるかどうかは、大毅の能力で確認できるだろ。トラップがなければ、そこに全員でひとまず隠れていてほしい。この一番奥の部屋にいると、万が一追い詰められた時袋の鼠になりかねないからな」
聖也は自らのブレスレットを再確認すると、指示だけ出してすたすたと来た道を戻ろうとしている。意図はすぐに読めた。夏俊は慌てて彼女の腕を掴んで制止する。
「ちょ、待て!助けに行くつもりか!?一人で!?」
「当たり前だ、俺が一番強いだろうが」
「無茶だ、いくらお前でも!どんな化物かわからないってのに!大体、お前の能力は強いかもしれないが、制限が強すぎる!五回しか使えない能力を、ここで一回使うってんじゃないだろうな!?」
確かに彼女は強いのかもしれない。だが、モンスターというものは、能力も姿も完全に未知数なのだ。素手で倒せるとは限らない。そして素手で倒せなければ、能力を使うしかないが――聖也の能力は『武器』。手にとったものを己がイメージできる武器に変換できるというが、手を離れると一分で消失してしまう制限があることを考えるなら近接武器しか使えないと考えるのがベターだ。しかも、能力の効果を切らさないためには常に握り続けていなければいけないので、最低でも片手が塞がってしまうことになる。一度に顕現できる武器も一種類のみだし、使用制限もたったの五回。どれほど長丁場になるかもわからない今、助けに行って使ってしまうのはあまりにも危険がすぎるのではないか。
そう、夏俊からすれば正論を言ったつもりである。しかし。
「助けに行けるのが俺だけなのに、助けに行かない理由があるのか?」
聖也は心底驚いた様子で言うのである。
「必ず戦うとも限らない。場合によっちゃ、他の奴ら担いででも全力で逃げるよ。安心しろ、俺はすげぇ力持ちだからな!」
「そういうことじゃない!」
こんな押し問答をしている間にも、誰かが襲われているかもしれない。それは、自分が見知ったクラスメートの誰かであるはずだ。わかっている、本当はここで止める時間が一番の無駄だとうことを。
それでも夏俊は言わずにはいられなかった。護衛とも言うべき彼女が行ってしまうのが不安だから、というだけではない。どうして、と思ったからだ。
「あんたの任務は、あくまでアランサの使徒を潰すことなんじゃないか?そのために俺達のクラスに潜入しただけなんじゃないのか!?なら、無理に全員助ける必要だって本来ないはずだ、何でそこまでする!?」
要らない危険を、彼女が背負う理由がわからない。たった三日――否、実質二日程度の仲だ。それも、彼女はほとんどうざがられて、ふざけて、いじられてばっかりのキャラクターであったというのに。
「え、だって。俺お前らのこと好きだし。このクラスすっごく良いクラスだと思うし。それ理由じゃ駄目か?」
「え」
「心配してくれるのは嬉しいけど、悪ぃ、時間ないわ。さっさと倒して帰ってくるし、迷惑はかけない。今キメラを倒してしまえば、あと三十分はキメラなしで自由に探索できるしメリットもあるだろ。な?」
やんわりと、腕を引き剥がされた。じゃあな、と言って彼女は走り出してしまう。夏俊は唖然とする他ない。あんなにあっさりと、誰かを好きだなんて言える人間。それは夏俊にとって、完全に初めて出会う人種であったからに他ならない。人懐っこい大毅だって、こうも照れもせずあんな言葉を吐いたりはしないだろう。
「ま、待て。待ってくれ、聖也……!」
その時、夏俊は思ったのだ。
何がなんでも彼女を、死なせるようなことがあってはならないと。
***
冗談でしょ、と。毒島彩也は思った。
確かに、たまたま入った部屋があまりにもごっちゃりしていたせいで、探索に手間取ってしまったことは否定できない。広場から、そこまで離れていない位置の部屋で、やや呑気な調査をしてしまっていたことも間違いはない。なんせ入った部屋には、一般で売られていそうな新書や単行本がぎっしり詰まっていて、まるで図書館のような場所であったのだ。非日常をうっかり忘れて、現実逃避に走ってしまったのも無理からぬことではあるだろう。
そうだ、本当は。自分が冷静に、みんなに指示を出すべきであったのだ。通信という能力を持っていたというだけで任命されたリーダーとはいえ、それでもリーダーに抜擢されたことに代わりはなかったのだから。
部屋から出た途端、何処かで重苦しい音が響くのが聞こえたのである。
全員が、凍りついたように同じ光景を見ていたはずだ。開いていったのは、自分達が来た方向――広場があった場所のすぐ近くにあった、『侵入禁止』の扉であったからである。数十メートル先の扉を、自分達はただただ唖然として見つめるしかなかったのだ。
灰色の手が、ぬ、っと突き出してくるのが見えた。形だけでは人間のそれによく似ていただろう。その大きさが、彩也の手の二倍以上でさえなければ。人間の肌とは思えない、病的な色をしていなければ。
こちら側に開いた大きな扉が邪魔で、なかなか敵の姿は見えなかった。ばぎり、という音と共に、その開かれたままの扉がへし折れなければ。ぐにゃり、と飴細工のように捻じ曲げられることがなければ。
ばあああん!と音を立てて。壁からちぎられた扉の片方が、反対側の廊下に飛んでいくのさえ見ていなければ。
「ひっ……!」
巨人、だった。
比較的天井が高めに設計されているであろう廊下に。ほとんど頭がつきそうなほど大きな巨人が、のっぺりとそこから這い出していたのである。全身が灰色で、全裸。しかし人間と違って性器の類はない。筋骨隆々で、手足は丸太をぶら下げたように太かった。
最大の違いは、その頭髪のない頭だ。異様に小さい鼻、引き結ばれたような唇――そして、そこだけ巨大な双眸。ぎょろんとした目玉には白目がなく、全面がまるで闇夜をはめ込んだような黒い色をしていた。そのビー玉のような眼に、人間らしい感情は見えない。しかし。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
自分達を視認した途端。怪物はその口をバカリと大きく開き、人とも、獣でもつかぬ声で絶叫したのである。ずらりと並んだ歯に恐れを抱くより先に、怪物がばたばたと大きな足音を立てて突進を開始した。捕まれば確実に殺される――彩也達六人は、転がるようにして逃げ出したのである。
だが、怪物の足は想像以上に速かった。
「い、いや!いやあ!」
一番足が遅かった
ぼぐり、と。両足、あるいは片足が脱臼する凄まじい音が響いた。激痛と恐怖に夏梅が絶叫する。そして、彼女がむちゃくちゃに暴れるのをものともせず、怪物は失禁して汚れていく彼女の股間に、大きな口を近づけていったのである。
それは、悪夢のような光景。
まるでフライドチキンを持つように、彼女の両足を握ったまま。化物はちょうど真ん中に位置していた彼女の股間に、思い切り噛み付いたのだ。
「ギュアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアババババババッバババッ!」
文字にすることさえ困難なほど、恐怖と苦痛に満ちた濁った悲鳴。骨盤が噛み砕かれ、内臓を食まれ、血を啜られるおぞましい音が響き渡った。血と排泄物の臭いが混じり合い、廊下を地獄絵図に染めていく。
彼女の下腹部が化物に食われると、悲鳴も途絶えてただただ夏梅は痙攣しされるがままになっていた。下半身が食いちぎられても、僅かな時間はまだ生きている――生きていてしまうのか。知りたくもなかった恐ろしい現実を前に、彩也ができることはひとつだけだった。
「に、逃げて!みんな逃げてええええ!」
もう、助けられない。
彼女はもう、助かるはずもない。
出来ることはただ一つ、彼女が食われている間に他の五人が逃げることだけだ。だが。
「いや、いやだああ!」
「うあああああ!」
――い、いや!死にたくない、死にたくない!
彩也は残る二人のクラスメートと共に、逃げるしかなかったのである。
能力を使って戦う、そんな勇気を持つことなどできるはずもなく。